【補足1】 現在の切通路とその景観について

 当ブログ記事の各所で、鎌倉は「やぐら」や「切通し」などにこそ中世の痕跡が残っている、と申し上げましたが、名越切通しの行政区域である逗子市のホームページに気がかりな記述があり、当ブログ記事への補足が必要と思います。ついては関連部分を抜粋(青文字)しましたので、ご覧ください。

現在の切通路とその景観につい

 いわゆる「鎌倉七口」で、切通路そのものを対象とした発掘調査は、名越切通以外では行われていません。
平成12年度に第1切通部分で通路を横断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。
 平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。
 以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。
 また、平成21年度には、亀が岡団地口から入って切通路が第一切通に差しかかる手前の北東側、現道から約5m高いところにある平場でトレンチ調査を行いました。その結果、平坦な岩盤面を逆台形に掘り込んだ道路状遺構(いわゆる掘割り道)が発見されました。路面は5回ほど修築されており、幅は概ね1m未満と非常に狭いですが、15世紀中ごろ以前の遺構と考えられます。
 新たに発見された道が、中世の「名越切通」の本道であるのかどうか、にわかには判断できませんが、
これまで、鎌倉の護りの要として象徴的に取り上げられることの多かった名越切通の現在の景観が、中世の姿そのものではなく、かなり新しい時代になって形づくられたものであることが、改めて裏付けられたと言えるでしょう
(逗子市ホームページの記述 了)

■以下は森園私見
 逗子市は、「最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。」と言ってます。たしかに考古学では通常、下の層ほど年代が古く上層が新しいと言えますが、「切通し」の場合は時代とともに深く掘り下げて、峠の上り下りを少なくしてゆく造成が重ねて行われてきました。ですので、最下層から江戸時代の遺物が出土したことで「現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたもの」だとしても、「これまで、鎌倉の護りの要として象徴的に取り上げられることの多かった名越切通の現在の景観が、中世の姿そのものではなく、かなり新しい時代になって形づくられたものであることが、改めて裏付けられたと言えるでしょう。」は言い過ぎ(誤解を与える)ではないかと思います。
 切通しの、最下層が江戸時代のもので、現在露出している路面がそれ以降のものであったとしても、その上層(現在は空中かもしれないし、路肩の高い位置かもしれない)には中世の道が存在していたと考える方が自然でしょう。「平成21年度に発見された新たな道」はトレンチ(試掘)調査のため全貌が見えませんが、少なくとも現在の道(国指定史蹟 名越切通)、もしくは、そう遠くない位置に中世の道が無ければ、中世に造られた墓(まんだら堂やぐら)に中世の人々はどのようにアクセスしたのでしょうか? やぐら付近に火葬の跡があったということは、荼毘にふす前の遺体をそこまで運んだはずです。まさか遺体を背負って道なき山の中を歩いたとは考えにくい。それに「大切岸」から鎌倉石を切り出し、鎌倉内に運んだのですから、これも道が通っていなければ運べません。 
 つまり、今回ご紹介した道(国指定史蹟 名越切通)は路面こそ中世のままではない部分があるにしても、側面や景観(特に上方)については、やはり中世の痕跡を十分にとどめているだろう、と私は思います。
 また同時に、中世という時代はわかっているようで、まだまだわかっていないことが多いことをあらためて感じました。


中世の時代に、この道が通っていなかったら……。


この中世の墓へ遺体をどのようにして運んだというのだろうか……。


 法性寺裏の「大切岸」から切り出した鎌倉石を、どうやって鎌倉市街に運んだというのだろうか……


 鎌倉は三方を山に囲まれて逗子との間には名越(難越え)の峠が立ちはだかっていた。


 横須賀線は名越を越えるためにトンネルを掘った。


 県道鎌倉葉山線も名越を通過するためにトンネルを掘った。
 では、中世の人々は、いったいどうしたのだろうか……。

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