『吾妻鏡』における北条義時の大倉薬師堂に関する記述

建保六年 七月九日 戊寅 晴
未明に右京兆大倉郷に渡御す。南の山際に於いて便宜の地を卜す。一堂を建立し、薬師像を安置せらるべしと。これ昨将軍家鶴岡に御出の時参会せらる。晩に及び亭に還御し休息せしめ給う。御夢中に薬師十二神將の内戌神御枕上に来たりて曰く、今年の神拝無事なり。明年拝賀の日、供奉せしめ給うこと莫れてえり。御夢覚めての後、尤も奇異を為す。且つはその意を得ずと。而るに御壮年の当初より、専ら二六の誓願を恃み給うの処、今霊夢の告げる所、信仰せざるべからざるの間、日次の沙汰に及ばず、梵宇を建立せらるべきの由仰せらる。爰に相州・李部等この事を甘心し給わず。各々諫め申されて云く、今年御神拝の事に依って、雲客已下参向す。その間御家人と云い土民等と云い、多く以て産財を費やし、愁歎未だ休まざるの処、また営作を相続けらる。撫民の儀に協い難きかと。右京兆、これ一身安全の宿願なり。更に百姓の煩いを仮るべからず。矧や八日戌の刻に当たり、医王善逝の眷属戌神の告げ有り。何ぞ思い立つ所を黙止せんかの由仰せらる。仍って匠等を召し指図を下さるるなり。

建保七年 二月八日 乙巳
右京兆大倉薬師堂に詣で給う。この梵宇は、霊夢の告げに依って草創せらるるの処、去る月二十七日戌の刻供奉するの時、夢の如く白犬御傍らに見えるの後、御心神違乱の間、御劔を仲章朝臣に譲り、伊賀の四郎ばかりを相具し退出しをはんぬ。而るに右京兆は御劔を役せらるるの由、禅師兼ねて以て存知するの間、その役人を守り、仲章の首を斬る。彼の時に当たり、この堂の戌神堂中に坐し給わずと。

以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました

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