海鳴りが遠くなった。
鎧に身を固めた軍団の棟梁が崖の上に立っている。梨打烏帽子の白い鉢巻が海風になびく。深々と頭(こうべ)をたれ、時が止まる。やがて諸手で捧げていた太刀を投じると、それは黄金色の輝跡を空(くう)に描きながら波間に消えていった。
崖を見あげる浜で、老漁師は武将の儀式ばったようすを眺めていた。陽に焼けた赤銅色の肌はひび割れ、萎え烏帽子の脇から垂れた白髪が風に揺れている。老いてはいるが眼光は鷹のように鋭く、遠く水平線に舞う海鳥を見極めるような視線を崖上の武将に向けていた。
すでに潮は引き始めている。やがて大きく引き、その日は岬の崖下に打ち寄せる波も消え、濡れた海藻の磯が姿を現すはずだ。
老漁師はその経験と体内に潜む感覚で潮の動きを読むことができた。黒潮に乗って南の海からやってきた海人族の血、その痕跡が陽と月の作用を感じとり海洋の躍動を察知するのだ。
未だ陽の昇らぬ海辺に、軍団のどよめきがあがった。神のみぞなせる不思議な光景を目のあたりにしたかのように、はじめは低くうめくような声が、やがて怒涛のように連鎖し、ついには棟梁を讃える雄叫びに変わった。誰かが先導を切って鬨の声をあげる。
棟梁が腰の太刀を抜き、天に掲げる。その切っ先が振りおろされ、岬の向こうを指す。と、いちだんと大きな鬨の声があがり、甲冑の軍団が蟻の行列のように蠢き始めた。
老漁師は濡れた磯をゆく軍団の後姿をじっと見つめていた。
潮時を教えたのは老漁師だ。祈りを天に通じさせる力が武の棟梁にあったわけではない。だが、神がかりを演じ、軍団の士気をこうまで高めることのできたのは棟梁の才に他ならない。おそらくこの武将は、出陣前に生品神社でかけた願を遂げるだろう。と老漁師は、自身の胸にある想いもこめながら軍団の背中を見送った。
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