古来、西の京都から東へ向かう東海道を相模の国まで来て、さらに東へ行くときは武蔵の国を経由するのではなく、海を渡って房総半島へ行くのが一般的だったようです。ここで「うんちく」ですが、房総の国である上総、下総はなぜ上総が南(地図では下)で下総が北(地図では上)なのかご存知でしょうか? 古来、国名を付ける場合、京都に近い方を「上」、遠い方を「下」。あるいは「前」、「後」としました。越前と越後。上野と下野。そして上総と下総です。つまり房総については南の方が北よりも京都に近かったのです。おそらく武蔵の国はまだ荒れ野で旅がし難く、船で海を渡る方がよほど楽だったのでしょう。三浦半島の六浦から房総の富津へは、古来から人の往来が多くあったと考えられます。ですので和田義盛が安房を領していたのも、朝夷奈切通しを越えて六浦へ出、対岸の富津へ渡るのは水軍の血筋から朝飯前。所領の安房と宮仕えの勤務地である鎌倉を頻繁に行き来していたと考えられます。
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