<読み下し>
文治五年十一月小二十三日 己卯 冴陰
終日風烈し夜に入り大倉観音堂回禄す。失火と。別当浄臺房煙火を見て涕泣し、堂の砌に到り悲歎す。則ち本尊を出し奉らんが為焔中に走り入る。彼の薬王菩薩は、師徳に報ぜんが為両臂を焼く。この浄臺聖人は、仏像を扶けんが為五躰を捨つ。衆人の思う所万死を疑わざるに、忽然これを出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢えて恙無しと。偏にこれ火もこれを焼くこと能わざるを謂うか。
(出典:「歴史に見る三浦氏」9.吾妻鏡(北條本、吉川本))
<現代語訳>
文治五年11月23日 己卯 冷たい曇り空
一日中風が激しく吹いていた。夜になって大倉観音堂が火事になった。失火とのこと。別当(責任者)の浄台坊は、煙を見て泣きながら、堂のそばまで来て悲観した。すぐに本尊を運び出さなければと、炎の中へ走って入った。彼の国の薬王菩薩は、仏教に尽くすために両肩を焼かれたが、この浄台上人は、仏像を助けるためにおのが身を投じた。見ていた人々は、絶対に死ぬのは疑いないと思ったが、にわかに仏像を持ち出してきた。衣がわずかに焦げてはいたが、体は無事だった。これは(仏の身は)火にも焼かれないとの謂れによるものか。
(訳:森園知生)