建暦二年(1212年)二月二十八日 乙巳
相模の国相模河の橋数箇間朽ち損ず。修理を加えらるべきの由、義村これを申す。相州・廣元朝臣・善信が如き群議有り。去る建久九年、重成法師これを新造す。供養を遂げるの日、結縁の為故将軍家(注1)渡御す。還路に及び御落馬有り。幾程を経ず薨じ給いをはんぬ。重成法師また殃に逢う。旁々吉事に非ず。今更強て再興有らずと雖も、何の殃事有るやの趣一同するの旨、御前に申すの処、仰せに云く、故将軍の薨御は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給う後の御事なり。重成法師は、己が不義に依って天譴を蒙るか。全く橋建立の過に非ず。この上は一切不吉を称すべからず。彼の橋有らば、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩い無し。その利一に非ず。顛倒せざる以前に、早く修理を加うべきの旨仰せ出ださると。
(以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました)
注1:源頼朝のこと。