建保四年(1216年)
十一月二十四日 癸卯 晴
将軍家(注1)先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従人六十余輩を定めらる。朝光これを奉行す。相州(注2)・奥州(注3)頻りに以てこれを諫め申さると雖も、御許容に能わず。造船の沙汰に及ぶと。
(以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました)
注1:源実朝
注2:北条義時
注3:陸奥守(大江広元)と推定
建保四年(1216年)
十一月二十四日 癸卯 晴
将軍家(注1)先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従人六十余輩を定めらる。朝光これを奉行す。相州(注2)・奥州(注3)頻りに以てこれを諫め申さると雖も、御許容に能わず。造船の沙汰に及ぶと。
(以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました)
注1:源実朝
注2:北条義時
注3:陸奥守(大江広元)と推定
Copyright © 鎌倉と江ノ島のはざまで All rights reserved.