■頼朝の持仏堂に関する『吾妻鏡』の記述
文治五年(1189年)七月十八日 丙子
伊豆山の住侶専光房を召し、仰せて曰く、奥州征伐の為潛かに立願有り。汝は持戒の浄侶なり。留守に候し祈請を擬すべし。将又進発の後、二十箇日を計り、この亭の後山に於いて、故に梵宇を草創すべし。年来の本尊正観音像を安置し奉らんが為なり。別して工匠に仰すべからず。汝自ら柱ばかりを立て置くべし。営作に於いては、以後沙汰有るべしてえり。専光房領状を申す。また伊豆の国北條に於いて伽藍を立つべきの由御立願有り。同じく彼の征伐御祈祷の為なりと。今日能員奥州に進発すと。
■白旗神社前に立つ「法華堂跡」の碑文
堂はもと頼朝の持仏を祀れる所にして頼朝の薨後其の廟所となる建保五年(1217)五月和田義盛叛して火を幕府に放てる時将軍実朝の難を避けたるは此の処なり 宝治元年(1247)六月五日三浦康村此に篭りて北条の軍を邀へ刀折れ矢尽きて一族郎党五百余人と供に自尽し満庭朱殷に染めし処とす
■出典が曖昧であることのお詫びとお願い
「法華堂跡」の碑文には「堂はもと頼朝の持仏を祀れる所にして頼朝の薨後其の廟所となる」とありますが、(拙い筆者の調べた範囲では)この出典が見つかりません。どなたか、ご教示いただければ嬉しく存じます。
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