東鑑(吾妻鏡)
治承五年九月十六日 己丑
桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。次いで実検を加えらるべきに依って、俊綱が面を見知るの者これ有るかの由尋ね仰せらる。而るに只今祇候の衆は、合眼せざるの由これを申す。爰に佐野の七郎申して云く、下河邊の四郎政義常に対面を遂ぐと。これを召さるべきかと。仍って召し仰すの間、政義実検を遂げ帰参せしむ。申して云く、首を刎ねて後日数を経るが故、その面殊に改め変ぜしむと雖も、大略相違無しと。
(以上、汲古書院発刊の『振り仮名付き 吾妻鏡 寛永版影印』をデータ化したサイトより引用、抜粋させていただきました)