源実朝暗殺事件の謎を再確認し「解き明かし」を整理
小説『春を忘るな』のネタバレを含みますので注意。
(1)甥が肉親の叔父を殺す?
甥の公暁は、叔父の実朝を殺していませんでした。公暁にとっての仇は父、頼家の殺害を指示した北条時政と義時。時政亡き後は義時です。そして指示に従って修善寺の湯殿で頼家を襲った実行犯。八幡宮での右大臣拝賀式で公暁が切ったのは、実朝に成り代わっていた頼家殺害実行犯。そして義時と思って切ったのは源仲章でした。公暁の仇討ちは半分成功、半分失敗でしたが、私の疑問「甥が肉親の叔父を殺す?」については「殺していないし、殺すつもりもなかった」ことで解決しました。
(2)政子は我が子を暗殺されても尼将軍でいられる「鉄の女」だったのか?
政子は「鉄の女」などではなく、我が子を殺されれば悲嘆にくれる、普通の母親でした。事件の後も「尼将軍」と言われるほど気丈な女でいられたのは、我が子を失ってはいなかったからです。実朝は17歳のとき疱瘡を患っていますが、首の無い遺体には疱瘡の痕がありませんでした。実朝の屍ではないことは明白。将軍は死すとも、腹を痛めて生んだ我が子(千幡)は生きて、憧れの異国へ旅立って行ったのを知っていたのです。「鉄の女だったのか?」という、私の疑問は解けました。
(3)なぜ将軍、源実朝の御首は消えたのか?
将軍の御首は、絶対に「消さなければならなかった」のです。事件で殺害された人物が、本当の将軍でなかったことが知れたら、鎌倉幕府は、朝廷、御家人、その他の全てに対して信用を失墜し、幕府の存在そのものが危うくなるでしょう。では、誰が消したのか? 事件の顛末を知っている者といえば、政子、義時、信子……。おそらく義時、あるいは義時が三浦義村に指示し、その配下が処分した。それが、もしかしたら秦野の御首塚だったのかもしれません。
源実朝公御首塚(神奈川県秦野市)
『吾妻鏡』の編者が、この真実を知っていたとしても絶対に明かせず、御首塚の存在など無視するしかありません。海だろうと山だろうと首塚だろうと、とにかくどこかへ捨て去り、首は「消す」しかなかったのです。
(4)「春を忘るな」は辞世の句なのか?
出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
「死の覚悟」というより「希望」を私が感じたのは自明のことでした。
実朝は大倉御所をあとにして、憧れの宋へ旅立って行ったのでした。つまり旅立ちの歌だったのです。
この歌は、『金槐和歌集』ではなく『吾妻鏡』に記されています。源実朝の作ではなく、『吾妻鏡』編者の創作という説もあります。そうだとしたら、何という粋な創作でしょう。事件の真相は絶対に明かせません。ですので辞世の句を装いながら、暗に「希望」、「旅立ち」を表現した……。いいえ、私は、やはり実朝が詠んだのだと思っています。扉の向こうから漏れ出るような微かな「希望」を詠えるのは源実朝本人しかいない。そう思いたいです。
(5)小説を書くうち、新たに判明したこと
蘭渓道隆
蘭渓道隆という禅僧をご存知でしょうか? 中国(宋)から渡来し、日本に禅宗を広めた第一人者と言って差し支えないと思います。鎌倉五山第一位、建長寺の開山でもあります。
1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋僧、月翁智鏡との縁により来日。鎌倉へ来て最初に寓居(仮住まい)したのは寿福寺。第五代執権、北条時頼の要請を受けて建長寺の開山となりました。ここで、ちょっと注意して見てください。1246年といえば、実朝暗殺事件(1219年)から27年目。実朝が生きていれば53歳? 寿福寺開山、栄西の影響を受けた実朝の渡宋目的には、宋に禅の老師を求めることがありました。実朝が西域まで足を延ばしたかどうかまでは知る由もありませんが、歳を重ねて宋で落ち着いた実朝が、師、栄西の遺志を受けて、禅僧のヘッドハンティングをした可能性は十分にあります。日本から来た僧、月翁智鏡の現地コーディネイターを担ったとも考えられるでしょう。そして蘭渓道隆が鎌倉を訪れたなら、何はともあれ寿福寺に行くことを勧めるでしょう。師、栄西が開き、母、政子が夫、頼朝の菩提寺として建て、実朝自身が慣れ親しんだ我が家のような寺、そう「寿福寺」です! 鎌倉を訪れた蘭渓道隆は実際、最初に寿福寺に逗留したのです。
また、蘭渓道隆は、中国にいた頃、夢の中で仙人に会い、「あなたは日本と縁がある」と告げられた、という逸話も残っています。なにか、実朝が陳和卿に「貴方は昔宋朝医王山の長老であった」と言われ、実朝自身も「その夢を見た」と言った『吾妻鏡』に登場する話と相通じるものを感じます。
蘭渓道隆に続き、その後は無学祖元(五山第二位円覚寺開山)等、続々と中国人禅僧が来日。鎌倉に禅宗の花が開いたのです。まさに栄西の遺志を継いだ源実朝が生涯をかけて行った仕事のように、私には思えてなりません。