四角四境祭

 四角四境祭とは、陰陽道 (おんようどう) で、疫神の災厄をはらうために、「家」の四隅、あるいは「国」の四方の境で疫神を祭り、鬼・悪霊などの侵入を防ぐための祭祀、主に京の朝廷で行われていました。
 鎌倉では、『吾妻鏡』によると、1224年(元仁元年)12月26日、三代執権北条泰時が、鎌倉に疫病が流行したことから、六浦、小坪、稲村、山内の四境(鎌倉の境界)で「四角四境祭」を執行させたとのことです。
 また、1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原(九条)頼経が疱瘡にかかった際には、巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬を四境とする四角四境祭が行われていますが、この時の「巨福呂坂」と1224年(元仁元年)の時の「山内」は同じ場所と考えられています。


元仁元年十二月二十六日に執行された時の場所

この「山内」あるいは「巨福呂坂」で、実際に祭祀を執り行った場所が、現在の地名で「山内」にある八雲神社と考えられています。


八雲神社
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見えます。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していましたが、「相模風土記」によれば、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだそうです。


晴明石(表示板が「清明」となっているのは、おそらく書き間違えと思いますが……)
 平安時代の陰陽師の大家「安倍晴明」が残したと伝えられています。(実際にあった場所は、200m程南の十王堂橋付近でしたが道路工事で、この神社内に移設したとのこと) 
 小説、映画で『陰陽師』をご存知の方なら「え、あの安倍晴明が鎌倉に来たの?」と驚かれることでしょう。
 ここから先は、またまた余談になりますが、来た(かもしれない)と考えられることが『吾妻鏡』に記載されています。治承四年(1180年)十月九日の項に、平氏打倒の兵を挙げて鎌倉に入った源頼朝の仮の住居を建設するについての以下記事です。(青字は『吾妻鏡』原文読み下し)

 九日 戊子 大庭平太景義を奉行として、御亭の作事を始めらる。ただし、合期の沙汰を致しがたきによつて、しばらく知家事(ちけじ)兼道が山内の宅を點じて、これを移し建てらる。この屋は正暦年中に建立の後、いまだ回祿の災に遭はず。晴明朝臣、鎮宅の符を押すが故なり。

 つまり、頼朝の住居の建設工事が始まったが、完成までは時間がかかるので「兼道」という名の「知家事」が住んでいた「山内の宅」を移築して、頼朝の当座の住居にした。(「知家事」とは、有力な家の内部の事務を処理する役目らしい) この兼道の「山内の宅」は、「正暦年中」(西暦990~995年)に建立されてから200年近くの間、「回祿(火の神の名)の災」つまり火災に遭うことがなかった。それは「晴明朝臣」がこの家に「鎮宅の符」、すなわち、家屋を災厄から防ぐ護符を押した(お札をつくって貼った)からだ、ということです。


 鎌倉最大最古の石造庚申塔(市重文)が八雲神社の裏手にあります。庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。庚申講(※)を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのこと。
  ※庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしのむし)という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習。

 日本の陰陽道は中国伝来の陰陽思想と道教に加え、神道や仏教等を融合させ、独自に発展したものであり、安倍晴明との関係や、道教由来の庚申塔があることから、この八雲神社は陰陽道と関係の深い場所と考えられ、『吾妻鏡』に「巨福呂坂」あるいは「山内」と記載された四角四境祭の祭祀が行われた場所と考えるのが妥当でしょう。

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