『吾妻鏡』建保四年六月大八日、六月大十五日

建保四年(1216年) 6月8日

原文読み下し
建保四年六月大八日 庚寅 晴
陳和卿参着す。これ東大寺の大仏を造る宋人なり。彼の寺供養の日、右大将家結縁し給うの次いでに、対面を遂げらるべきの由頻りに以て命ぜらるると雖も、和卿云く、貴客は多く人命を断たしめ給うの間、罪業これ重し。値遇を奉ることその憚り有りと。仍って遂に謁し申さず。而るに当将軍に於いては権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為参上を企てるの由これを申す。即ち筑後左衛門の尉朝重が宅を点ぜられ、和卿が旅宿と為す。先ず廣元朝臣をして子細を聞かしめ給う。

現代語訳
建保四年(1216年) 6月8日 庚寅 晴
陳和卿がやってきた。この人は東大寺大仏を再興した宋の人である。建久六年の大仏殿開眼供養に右大将家(頼朝)が出席したついでに、陳和卿に会いたいと盛んに伝えたが、和卿は「頼朝様は大勢を攻め殺しているので、その罪は重い方なのでお会いするのは遠慮しておきます」と言ったとのこと。そしてとうとう会うこともなかった。「しかし、現在の将軍様(実朝)は、仏の化身なので、是非にもお顔を拝んでおきたいとやってきた」と言った。したがって筑後左衛門の尉朝重の宅を宿に指定し、まず大江広元が子細を聞くことになった。

建保四年六月大十五日

原文読み下し
建保四年六月大十五日 丁酉 晴
和卿を御所に召し御対面有り。和卿三反拝し奉り頗る涕泣す。将軍家その礼を憚り給うの処、和卿申して云く、貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に吾その門弟に列すと。この事、去る建暦元年六月三日丑の刻、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入り、この趣を告げ奉る。而るに御夢想の事、敢えて以て御詞に出されざるの処、六箇年に及び、忽ち以て和卿が申状に符合す。仍って御信仰の外他事無しと。

現代語訳
建保4年(1216年) 6月15日 丁酉 晴
(実朝は)和卿を呼び出して御所でお会いになった。和卿は三度拝んで、とても泣いた。将軍実朝が、その礼の仕方に気兼ねしていると、陳和卿が云うには「貴方様の前世は、宋の国の医王山阿育王寺の開祖だったのです。その頃私の前世も門弟に入っておりました」とのこと。実はこの事は、建暦元年(1211年)六月三日夜中の二時頃に、将軍実朝が眠っていると尊い僧が一人夢枕に立ち、この内容を告げた。しかし、夢から覚めた後、誰にも言わないまま六年たったけれど、陳和卿の云うことと合っている。それで、なおさら信仰心を新たにする以外なかったとのこと。

(以上の「原文読み下し」は、こちらから引用、抜粋させていただきました)

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