文治元年(1185年) 十一月十二日 辛卯
二品御書を駿河の国以西の御家人に遣わさる。触れ仰せられて称く、九郎すでに京を落ちをはんぬ。仍って御上洛の事、当時は延引せしむ所なり。但し各々懈緩の儀無く用意を致し、重ねての仰せに順うべきなりてえり。また駿河の国岡邊権の守泰綱、この間病脳に依って、御堂供養並びに黄瀬河に御坐すの時参向せず。近日適々平癒し、御上洛の事有るべきを聞き、悴衰の身を扶け、先ず鎌倉に参り、御共に候すべき由これを申す。而るに今御京上の儀無し。参向すべからず。将又肥満の泰綱、騎用の馬定めてこれ無きか。須く用意を廻らし御旨に随うべきの由報じ仰せらると。今日、河越重頼の所領等収公せらる。これ義経の縁者たるに依ってなり。その内伊勢の国香取五箇郷、大井の兵三次郎實春これを賜う。その外の所は、重頼が老母これを預かる。また下河邊の四郎政義同じく所領等を召し放たる。重頼の聟たるが故なり。凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩うの処、因幡の前司廣元(注1)申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。早く申請せしめ給うべしと。二品(注2)殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり。
(以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました)
注1:因幡守は官位。因幡の前司廣元とは前の因幡守、大江広元。
注2:二品は源頼朝の当時の官位。