『吾妻鏡』建暦三年五月二日(和田の乱)

建暦三年 五月 二日 壬寅 陰
  筑後左衛門の尉朝重義盛が近隣に在り。而るに義盛が館に軍兵競い集まる。その粧いを見その音を聞き、戎服を備え使者を発す。事の由を前の大膳大夫に告ぐ。時に件の朝臣賓客座に在り。盃酒方酣なり。亭主これを聞き、独り座を起ち御所に奔参す。次いで三浦平六左衛門の尉義村・同弟九郎右衛門の尉胤義等、始めは義盛に與し一諾を成す。北門を警固すべきの由、同心の起請文を書きながら、後にはこれを改変せしむ。兄弟各々相議して云く、曩祖三浦の平太郎為継八幡殿に属き奉り、奥州の武衡・家衡を征すより以降、飽くまでその恩禄を啄む所なり。今内親の勧めに就いて、忽ち累代の主君を射奉らば、定めて天譴を遁るべからざるものか。早く先非を翻し、彼の内議の趣を告げ申すべく後悔に及び、則ち相州の御亭に参入し、義盛すでに出軍の由を申す。時に相州囲碁会有り。この事を聞くと雖も、敢えて以て驚動の気無し。心静かに目算を加えるの後座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束し幕府に参り給う。而るに義盛と時兼と謀合の疑い有りと雖も、今朝の事に非ざるかの由猶予するの間、御所に於いて敢えて警衛の備え無し。然れども両客の告げに依って、尼御台所並びに御台所等、営中を去り北御門を出て、鶴岡別当坊に渡御すと。申の刻、和田左衛門の尉義盛伴党を率い、忽ち将軍の幕下を襲う。件の與力衆と謂うは、嫡男和田新左衛門の尉常盛・同子息新兵衛の尉朝盛入道・三男朝夷名の三郎義秀・四男和田四郎左衛門の尉義直・五男同五郎兵衛の尉義重・六男同六郎兵衛の尉義信・七男同七郎秀盛、この外土屋大学の助義清・古郡左衛門の尉保忠・渋谷の次郎高重(横山権の守時重聟)・中山の四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衛門の尉惟平・岡崎左衛門の尉實忠(真田與一義忠子)・梶原の六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛・同七郎景氏・大庭の小次郎景兼・深澤の三郎景家・大方の五郎政直・同太郎遠政・塩屋の三郎惟守以下、或いは親戚として或いは朋友として、去る春以来結党群を成すの輩なり。皆東西より起こる。百五十の軍勢を三手に相分ち、先ず幕府の南門並びに相州の御第(小町の上)西北両門を囲む。相州幕府に候ぜらるると雖も、留守の壮士等有義の勢、各々夾板を切り、その隙を以て矢石の路と為し攻戦す。義兵等多く以て傷死す。次いで廣元朝臣の亭酒客座に在り。未だ去らざる砌、義盛の大軍競い到り門前に進む。その名字を知らざると雖も、すでに矢を発ち攻戦す。淵酔の士敗軍に没す。その後凶徒横大路(御所南西の道なり)に到る。御所の西南政所の前に於いて、御家人等これを支え合戦数返に及ぶなり。波多野中務の丞忠綱先登に進む。また三浦左衛門の尉義村これに馳せ加わる。酉の刻、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かせ箭を飛ばす。相模修理の亮泰時・同次郎朝時・上総の三郎義氏等防戦に兵略を尽くす。而るに朝夷名の三郎義秀惣門を破り、南庭に乱入し、籠もる所の御家人等を攻撃す。剰え火を御所に放ち、郭内室屋一宇残らず焼亡す。これに依って将軍家右大将軍家の法華堂に入御す。火災を遁れ御うべきが故なり。相州・大官令御共に候ぜらる。この間挑戦に及び、鳴鏑相和し、利劔刃を耀かす。就中義秀猛威を振るい壮力を彰わす。すでに以て神の如し。彼に敵すの軍士等死を免がること無し。所謂五十嵐の小豊次・葛貫の三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗以下数輩害せらる。その中、高井三郎兵衛の尉重茂(和田の次郎義茂子、義盛甥なり)と義秀と攻戦す。互いに弓を棄て轡を並べ、雌雄を決せんと欲す。両人取り合い共に以て落馬す。遂に重茂討たれをはんぬ。義秀を取り落とすの者、この一人たるの上、一族の謀曲に與せず、独り御所に参り命を殞すなり。人以て感歎せざると云うこと莫し。爰に義秀未だ騎馬せざるの際、相模の次郎朝時太刀を取り義秀に戦う。その勢を比ぶるに、更に対揚に恥じずと雖も、朝時主遂に疵を蒙るなり。然れどもその命を全うす。これ兵略と筋力との致す所、殆ど傍輩に越えるが故なり。また足利の三郎義氏、政所前の橋の傍らに於いて義秀に相逢う。義秀追って義氏が鎧の袖を取る。縡太だ急にして、義氏駿馬に策ち隍の西に飛ばしむ。その間鎧の袖中より絶つ。然れども馬倒れず、主落ちず。義秀志を励ますと雖も、合戦数刻、乗馬の疲れ極まるの間、泥んで隍の東に留まる。両士の勇力を論ずるに、互いに強弱無く掲焉なり。見る者掌を抵ち舌を鳴らす。義秀猶橋の上を廻り、義氏を追わんと擬するの刻、鷹司の官者その中を隔て相支えるに依って、義秀が為に害せらる。この間義氏遁れ得て奔走すと。また武田の五郎信光、若宮大路米町口に於いて義秀に行き逢う。互いに目を懸け、すでに相戦わんと欲するの処、信光男悪三郎信忠その中に馳せ入る。時に義秀信忠父に代わらんと欲するの形勢を感じ、馳せ過ぎをはんぬ。凡そ義盛ただに大威を播すのみならず、その士率一を以て千に当たる。天地震怒して相戦う。今日暮れ終夜に及び、星を見るに未だやまず。匠作全く彼の武勇を怖畏せず。且つは身命を棄て、且つは健士を勧め調え禦ぐの間、暁更に臨み、義盛漸く兵尽き箭窮まる。疲馬に策ち前浜の辺に遁れ退く。即ち匠作旗を揚げ勢を率い、中下馬橋を警固し給う。また米町辻・大町大路等の所々に於いて合戦す。足利の三郎義氏・筑後の六郎尚知・波多野中務次郎経朝・潮田の三郎實秀等、勝ちに乗り凶徒を攻む。廣元朝臣は御文籍を警固せんが為、法華堂より政所に還る。路次御家人等を副え遣わさる。また侍従能氏(高範卿子)・安藝権の守範高(熱田大宮司範雅子)等納涼の地を求め、今日辺土に逍遙す。而るに騒動の由を聞き奔参す。路巷皆戦場たり。仍って両人共馬を山内の辺に扣えるの処、義盛退散の隙を伺い、法華堂に参ると。

(以上は、こちらから引用、抜粋させていただきました)

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