甲斐善光寺蔵の「源頼朝坐像」


この「源頼朝坐像」から以下のような内容(訳文)の胎内銘が発見された。

右大将殿(源頼朝)が正治元年正月十三日にお亡くなりになった。尼二品殿(北条政子)の御沙汰によって、この御影(肖像)がつくられ、当善光寺の遊■■によって御堂へ遷された。両度(文永・正和)の火災によって(御堂が)焼失したけれども、御影の御躰の首の部分は何とか取り出された。そうしている間に、観阿弥陀仏の沙汰によって、このように御繕修がなされたのである。
文保三年
(1319年)五月六日

 この頼朝像は,妻の北条政子の命によって造像され、信濃善光寺(長野県)に安置されていた。つまり,頼朝の死後まもなく造像されたと判断でき、その頭部は13世紀初頭の肖像彫刻であった。
 なぜ善光寺に安置されたのかといえば、源頼朝と北条政子が善光寺如来を深く信仰していたからである。平安末期に信濃善光寺が全焼したことは『平家物語』で知られているが、その善光寺の復興に力を尽くしたのが源頼朝と北条政子であった。それがどうして信濃善光寺ではなくて,甲斐善光寺に伝来したかといえば、信濃善光寺は川中島の近くにある。上杉謙信と武田信玄は、領土だけでなくて善光寺如来と善光寺をも奪い合ったのだった。そして信玄は、善光寺を根こそぎ甲斐に移してしまう。その時、源頼朝坐像(別述の源実朝坐像を含む)も甲斐へ運ばれたのである。
 善光寺如来は一時、豊臣秀吉によって京都に遷されるが、やがて長野に戻され、信濃善光寺が復活する。しかし、甲斐善光寺はそのまま残り、宝物館があって、そこに「源頼朝坐像」は静かに坐っている。

東京大学名誉教授 黒田日出男著『源頼朝像はこれだ』より抜粋

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