■前回までのあらすじ
かつて大学で考古学を学んだ憲二は、久しぶりに会った恩師、吉田教授に誘われて小町裏通りのスナック[段葛]へ来た。そこで、実家の事情から考古学研究を諦めざるを得なかった身の上を話す。吉田と女将(ママ)から慰められながら話が歴史談義 へ及ぶと、女将は鎌倉時代を、まるで見てきたかのように語りだし、場面は鎌倉時代へと移ってゆく。
第二章
暗闇……なのに火事場の炎に包まれているかのような火照り。
熱い闇の中に蠢く影がある。
――何者ぞ!
叫んだつもりが声にならない。
闇の中で、何かが鈍く光った。太刀の刃か……。そうか、刺客だな?
ついに来たか。いつかこんなときがくるとは思っていた。
――欲しいのは吾(ワレ)の首か。
胸の中でつぶやくやいなや、刃が飛んできた。胸を突かれる。覚悟した痛みはない。かわりに闇の中に突き飛ばされた。間髪を入れず二の太刀が降ってくる。今度は首に衝撃。同時に暗闇がぐるぐると回る。宙を飛んだかのような覚えのあと、横っ面を叩かれたような衝撃。何が起きたのかわからないまま意識が霞む。
どれほど時が経ったのか。ふたたび、目の前に闇が広がっている。どうやら頬に当たったのは床板のようだ。堅く冷たいそれと頬ずりしながら暗闇を見つめている自分がいる。視界の奥に何かが横たわっているのが、ぼんやりと見えてくる。人の体? だが……、首から上がない。そこにあるはずの頭が……。どうやら、その胴体は自らのもののようだ。そして床と頬ずりしながらそれを眺めている自身は、かつてその胴体の上にあったはずのものらしい。
炎に包まれたような火照りの中で、自身の屍がしだいに霞み、闇に溶けてゆく……。
「殿(トノ)!」
聞き憶えのある声がする。
波打つような木目模様がぼんやりと見えてくる。それは見なれた天井の杉板だ。まったくの暗闇ではなく明かりが灯っているらしい。しかし炎に包まれたような火照りは、あい変わらず続いている。
「おお、殿がお目覚めに!」
「もう大丈夫じゃ」
遠くのほうから近臣たちの声が聞こえる。
火照った体の熱気を逃がすよう、寝衣の襟元を開く、と……。
――これが私の肌か……。
醜い水疱が胸いちめんに浮いている。だが、その中に見慣れた青紫の痣がある。それはたしかに自身の胸である証だった。
「ほれ、ご覧なさい。これは源氏の証。そなたが大殿の子である証なのですよ。大殿はお背中に、兄の中将殿はお腹に、竜胆(リンドウ)の花のようなお標(シルシ)があるのです」
母の政子は、まだ袴も履かぬ幼子だった千幡を膝の上にのせ、頬ずりをしながら襟元を少し開いてそう言った。長い黒髪が頬をくすぐる。まだ若かった母の黒い大きな瞳がじっと見つめてくる。父の頼朝にも兄の頼家にも、同じような痣がある、と……。
「母上、リンドウとはいかなる花にございましょう」
千幡はまだ見ぬその花を心に描こうとした。
「秋の野山に咲く紫の花です。そう、伊豆の山にも咲いておりました」
そう言った政子は、昔を懐かしむような遠い目をした。おそらく頼朝と知り合ったころのことを目に浮かべたのだろう。自分の男の、衣(キヌ)に隠れた標を、凛々しくも可憐な花と重ね合わせたのかもしれない。
醜い水疱の肌の中に自身の標を見つけたとたん、幼いころの記憶がよみがえった。
母に連れられて鶴岡八幡宮へ参ったときのことだった。本宮へ上がる石段脇の銀杏が新緑の若葉を吹き、陽の光が緑色に輝いて降り注ぐ。その木漏れ日が石段にまだら模様を描いていた。
――銀杏の木が私を見つめている。
降り注ぐ木漏れ日の中に柔らかな視線を感じた。なぜか、誰かに見守られているような……。
そしてその真綿に包まれたような柔らかな心地は、その後もずっとあったのだが、いつしか空気のように在ることを忘れていった。
「どうやらお目覚めになられたようだが、疱瘡はこれからが山じゃ」
ひとたびは熱が下がって回復したかに見えるものの、再び高い熱に襲われ、こんどは体の表のみならず肺腑の中にまで膿疱が広がり、息をするのも難しくなる。それを乗り越えられるかどうかが生死の分かれ目。十人のうち四人は死に至るという。
声色を潜めながらもそんな話声が聞こえてくる。
――やはり、あの疱瘡という病か。
であれば、体のみならず顔までも醜い水疱に覆われているに違いない。その顔が目に浮かぶ。その顔を室の信子が見たら……。十七歳の実朝は、想像しただけで奈落の底へ落ちてゆくような気がした。
ふたたび炎熱地獄のような暗闇に落ちてゆく。
遠くからあわただしい声が聞こえてくる。
「殿が馬から落ちただと?」
「なぜ故じゃ? あの殿が……」
館の中は騒然となり、乱れた人の足音が行き交う。
「あの殿が馬から落ちるなど信じられぬ」
あちこちでそう囁く声がする。
千幡が八歳になったころのことだった。父、頼朝は武蔵国稲毛を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った相模川の橋供養に参列したその帰路、落馬してそのまま意識がもどらなくなった。
伊豆で兵をあげ、東国を馬で駆け抜けて平定した、あの武将が、たかが近隣での儀式から帰る道すがら落馬するなどあり得ない。たとえ馬からずり落ちたとしても意識がなくなるとは……。そのまま十七日後に落命したが、密かにその死因を疑う者はいた。
そして兄も……。
兄の頼家は修善寺で死んだ、とだけ聞かされていた。あたかも病で亡くなったかのように、だ。ところが後になって京から密かに届いた文で事の顛末を知ることになった。その場景が我がことのように浮かぶ。
兄は脳病の治療と称して伊豆修善寺に幽閉されていた。
湯殿は湯気がたちこめ霧に包まれたかのようだった。その湯気の奥に人影が映る。
「今はよい。あとで呼ぶ」
頼家は背中を流す湯女が入ってきたのだと思った。
だが返事がない。
――おかしい……。
思ったとたん、いきなり背後から首顎を抑えられてのけ反った。
何者ぞ! 叫ぼうとしたが声が出ない。
――うむ、刺客か!
すぐに察しはついた。いつか来るだろうと思っていた。視界のはじで一瞬光ったのは小太刀の刃か。とっさに相手の腕と首根っこをつかんで背負い、岩風呂の中に投げ込んだ。相撲は得意で力自慢の家来たちと手合わせしてもそう簡単には負けなかった。体と武には自信がある。そのまま相手の頭を風呂の底に沈める。苦しそうにもがきながら泡を吐く顔がゆらゆらと見える。さいわい湯水があるので息を止めるのは容易だ。ところが、またも後ろから首を絞められる。こんどは縄のようなもので締めあげられたようで、喉から舌の根まで飛び出そうになった。相手は一人ではない。手足、そして股ぐらのふぐりまでもつかまれ、身動きがとれなくなった。このまま殺(ヤ)られてたまるものか! と抗ったが、みぞおちに何かが重く深く突き刺さる。自らの血しぶきが目を覆う。赤く染まった視界に相手の顔が一瞬映った。どこかで見た憶えがある。そうだ、名越の館だ……。やはり……、だが、そのまま視界は色を失って銀白色に、そして灰色になり、やがて闇に包まれ……。
今、疱瘡の熱に浮かされながら夢うつつに見ている情景は兄の最後のようすらしい。見たはずのないその景色が、まるで我がことのように脳裏を駆け巡る。刺客に襲われ、首を絞められて息ができないのは、じつのところ今は、膿疱で喉から肺が爛れているからだろう。だが……、自分もいつか同じように、という思いが胸に染みついてゆく。
実朝は文を通じて京とのつながりを持っていた。侍読(教育係)の源仲章(ミナモト ナカアキラ)は後鳥羽上皇とも親しく、正室の信子は後鳥羽上皇とも関係の深い公家、坊門信清の娘であったので、その侍女を通して京の公家たちとは密かに文をやり取りしていた。
兄の頼家に刺客を放ったのは、どうやら名越に居を構える祖父であり執権の北条時政らしい。京ではそれがもっぱらの噂となっているようだ。たしかにそれはうなずける。というのも、頼家は父、頼朝の乳母であった比企の尼の娘夫婦を乳父、乳母にして育てられた。兄自身も比企家の娘を娶ったことで、比企家は二代目将軍家の外戚となり、御家人の中でも大きな力を持つようになっていた。それが初代将軍頼朝の外戚である北条家にしてみれば面白くない存在となっていたのだ。そこで北条時政は比企能員(ヒキ ヨシカズ)を名越の館に呼びつけて殺したうえ、比企家を一族もろとも滅ぼしてしまった。このとき頼家の嫡男、一幡も母親とともに殺されてしまったが、二男の善哉はのちに出家させられ公暁(クギョウ)という僧名を得ている。(参考:関係者系図)
頼家が比企の変の少し前から原因のわからぬ病にかかっていたのも何かおかしい、と実朝は思っていた。あの頑健な体で幼少のころより病ひとつしたことのなかった兄が……。しかも、まだ兄が存命なのに亡くなったという報せが京へゆき、にわかに実朝が三代将軍に就くことが上皇に許された。その後、兄は持ち前の頑健な体で病から回復するも、こんどは脳の病とされて修善寺に幽閉され、そのまま亡くなったと聞かされていたのだ。
兄は、母の政子や北条家の人々からは不肖の子とされ、将軍に相応しくないとまで言われていた。たしかに負けん気が強く、気性の激しいところはあったが、実朝の目には、父、頼朝のような強い武将で、一癖も二癖もある御家人たちを統率するには頼もしい人と映っていた。武や狩に長け、朗らかにしておおらかで、若い侍たちからは慕われていた。良く思っていなかったのは比企家に対抗心を燃やす北条家や源平合戦以来の旧御家人たちだ。母の政子も、夫、頼朝が乳母である比企の尼に執心なのを面白く思っていなかったらしい。そのうえ嫡男までも比企家に奪られたような形になっていたので、次男の千幡、つまり実朝だけは自身の妹、阿波局(アワノツボネ)の手で育てさせ、やがて将軍にさせたのだった。
十二歳になったばかりの実朝は、よもや自分が兄の跡を継いで三代将軍になるとは思ってもいなかった。
――自分には、もっと別の夢があった……。
この想いは終始つきまとい、しだいに胸の奥で堅く熱いしこりとなっていった。
ひと月ほどして疱瘡は治った。実朝十七の春である。
対舎(タイノヤ 注)の軒端からのぞく梅の枝には点々と白い蕾が付きはじめていた。
「鏡をもて」
対舎の廂(ヒサシ 注)の床に侍女がひとり侍っている。序列の低い、ふだんならば直に話すことのほとんどない下働きの侍女だ。周りには御台所の信子も、その侍女たちの姿もない。
「それは……」
直に口をきくことに緊張しているのか、それとも何か応えずらいことがあるのか口ごもる。おそらくは後者のほうなのだろう。
「よいからもて」
自分の顔が見苦しいことになっているのは頬を撫でたときの手触りで想像はつく。それでも自身の目で確かめずにはいられない。
そっと視線をそらせながら手鏡を捧げる侍女から、それを奪うように取る。肌が荒れているのは覚悟のうえだ。多少のことでは驚くまい、と自身に言い聞かせる。ひとつ息をして心を静め、丸い銅板の中を覗く、が、……息をのむ……。