男はショアブレイクまで乗りきるとボードを脇に抱え浜に上がった。
公園から浜に降りる階段の一番上に腰掛けていたその少女は、男が海から上がって来るのをじっと見つめていた。
「やあ、海は好きかい?」
階段の上まで上がり、少女の脇を通りながら男は話かけた。
「ええ、大好きよ。おじさんはいつもここでサーフィンしてるの?」
「うん、そうだね、波の良い時と特別の日にはね」
「特別な日?」
男は少女の問いに一瞬とまどったが、隣に腰を掛けると海の遠くを見つめながら話し始めた。
「あの大津波のことは知ってるよね。もう10年も前になるけど。大彗星が小笠原沖に落下して日本列島が津波で水没したこと。日本人は難民になって、それを受け入れて貰える世界中の国に散り散りになっていったこと」
「ママから聞いたわ」
「おじさんはブラジルに行くことになったんだけど、おじさんの恋人はアフリカへ行くことになったんだ。それで日本を離れる時、この稲村ガ崎でその人と約束したんだ。もし日本へ戻ったら月の暦の15日に、ここへ来ようってね。そのうちいつか会えるようにね。月の暦なら、もしカレンダーが無くても満月の日だからすぐ分かるからね」
「満月の日にはいつも来てたのね?」
「ああ、あの時から5年経ってブラジルから帰ってきてからずっと来てる。満月の時は大潮で波も良くなることが多いからね。ところで君はどこから来たの?」
「アフリカよ。私、ママから聞いたの。満月の日に稲村ガ崎に行けば、きっとパパに会えるって…」
「それでママは?」
「看護婦さんだったんだけど、去年熱病で亡くなったわ。満月の夜だった」
少女の黒く大きなひとみが潤み、男の顔が映った。
おわり
1999年12月1日発行『探検隊』6号ショートショートシアター『渚にて』より
6号は「月」がテーマだったので、満月、大潮をイメージして、この物語を書きました。
挿絵:えのしま探検隊メンバー田中康俊(現、湘南社社長)
雑誌『探検隊』
先日(8月23日~26日)ラジオドラマ「稲村ジェーン2021~それぞれの夏~」が放送されました。ふだんラジオを聴くことはないのですが、「稲村ジェーン」と聞けば放ってはおけません。スマホにradikoというアプリをインストールして聴きました。サザンの曲が満載で、とても懐かしく、映画のシーンが次々と目に浮かびました。
ラジオドラマは映画の時から56年後という設定。稲村ヶ崎で、ロングボードに乗っていた老人(かつてのヒロシ)が海から上がってくるところへ少女が話しかけます。その少女は、あの時の波子に似ていた……。
ふと、かつて俺もこんな物語を書いたことがあるな、と思いました。そして、「あの日、たしかに竜をみた」というセリフにドキリ。先日、このブログで『かつて、そこには竜がいた』という稲村ヶ崎を舞台にした連載小説を掲載したばかりだったからです。そして、つぎつぎと記憶がよみがえり、むかし仲間たちと発行していた雑誌『探検隊』に『渚にて』を掲載したことを思い出しました。
今、読み返してみると、なんだか恥ずかしいやら、懐かしいやら。そして、ふと思ったのは、桑田佳祐が「TSUNAMI」を発表したのはいつだっただろう? と調べてみると1999年の年越しライブで初めて披露。リリースは2000年1月26日とのこと。『渚にて』掲載から1ヶ月後でした。ドヤ、俺の方が先だ、なんて言うつもりはありません。あくまで私個人の「稲村ヶ崎」の系譜として、新田義貞の渡渉伝説があり、大波サーフィン大会の「稲村クラシック」、映画『稲村ジェーン』があって、探検隊に『渚にて』を書き、そして桑田佳祐が「TSUNAMI」を歌った。それから11年後に東日本大震災があって「津波」「TSUNAMI」はセンシティブな言葉になってしまった……。
私にとって「稲村ヶ崎」という場所には特別の想いがあって、おそらくこれからも「稲村」について書いてゆくような気がしています。このブログのタイトルは「鎌倉と江ノ島のはざまで」。稲村ヶ崎は、そこにあるのですから……。
■余談(オマケ)
恥ずかしながら、去年のコチラの記事で私が着ているTシャツは「Inamura Jane」です。
ウクレレは、コロナ巣篭りで毎日弾いてるので、今はもうチョットだけ上達してます (;^_^A