5.著作のこと

【連載小説】春を忘るな(19)

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■前回までのあらすじ
 大学で考古学を学んだ憲二は、恩師、吉田教授と小町裏通りのスナック[段葛]で歴史談義する中、[段葛]の女将(ママ)は鎌倉時代を、まるで見てきたかのように語りだす。
 実朝は疱瘡を患い、熱にうなされて自らの首を切られる悪夢を見、自身も兄や父のように殺されるのではないかという疑念を抱く。やがて疱瘡が癒え、鏡に映った自身の顏を見て失望するが、人前では公家のように化粧をし、宋への憧れを抱き続けた。和田義盛が乱を起こすが、幼なじみの和田朝盛からの手紙で、和田に謀反の心はなく、義時への抵抗だったことを知るも和田は滅ぶ。
 陳和卿(チンナケイ)という宋国出身の僧がやってくる。実朝は喜んで和卿を受け入れる。唐船があれば宋に行けるという話になり、実朝は和卿に唐船の建造を命じ、周囲の反対を押し切って渡宋を決意する。唐船の建造は順調に進んだが、船降し(進水)に失敗し、海に浮かぶことはなかった。実朝は義時を疑いながらも再度挑むことを胸に誓う。やがて公暁が京での修行を終え、鶴岡八幡宮寺の別当となるべく鎌倉へ帰ってくる。実朝は成長した甥の中に兄頼家の豪放な面影を見るのだった。
 一方、義時が、官位昇進を望む実朝を諫めにやってくる。はたして義時は忠臣なのか、それとも北条の世を企む策士か、実朝は見極めようとする。そして八幡宮裏山の堂で千日の参篭に入っている公暁を訪ねる。腹の内を探りに行ったのだが、期せずして心を開いた話し合いとなった。
 雪の降る右大臣拝賀式の日、事件は起きた。だが、将軍実朝の首は公暁に持ち去られ、首の無い遺体が御所に運ばれる。泣き崩れる政子に義時は、実朝の遺体を検めるよう促す。

   * * * 

 ――睨んだ通りであればよいが、もし、そうでなければ……。
 義時は、胸の中で、神仏に手を合わせた。
 骸の胸が露わになる。
 首のない胴体の肩から胸にかけてざっくりと割れた大きな傷がある。それを政子がじっと見つめる。
 一瞬、部屋の空気が固まったようだった。
「ない」
 政子がつぶやくように言葉を漏らす。
「確(シカ)とない」
 自身に言い聞かせるよう、もういちどつぶやいた時には微かな笑みを浮かべていた。
「あの痣がない……、あの竜胆(リンドウ)の花のような……」
 ……ほれ、ご覧なさい。これは源氏の証。そなたが大殿の子である証なのですよ。大殿はお背中に、兄、中将殿はお腹に、竜胆の花のようなお標(シルシ)があるのです……。
 姉が、自身の腹を痛めた子、幼い千幡に、遠い昔、そう語りかけていたのを義時も思い出した。
「姉上、殿のお標が……無いのですね」
「無い……それに疱瘡の痕も」
 それを聞いて信子もはっとしたような顔になる。信子にとっては実朝の疱瘡の痕、痘痕(アバタ)が大きな障りになっていたはずだ。そむけていた目を恐るおそる屍に向ける。どうやら痣のことは知らなかったようだ。それでも疱瘡の痕があるはず、ということが分からないはずはない。骸の蝋のように白く、そして痘痕の無い肌をしげしげと見つめ、やがて驚きの表情を見せ始めた。
「姉上。こちらへ」
 義時は信子をおいて政子だけを広廂の縁側へ呼び寄せた。
「じつは……」
 義時は今朝がたからの出来事を姉に小声で伝えた。
 今日の式典を前にして、実朝の身支度に時間がかかっていた。後鳥羽上皇から賜った真新しい束帯を着るのに手間取るのはわかる、が、とりわけ化粧に時間がかかっていた。ふだんから実朝は白粉を塗るとき、ひとり部屋に籠る。疱瘡の痘痕を塗りこめるようすを人に見せたくないのだろう。そして今日は……。
「すこぶる間をかけておいででした。して、身支度を終えたあとは早々に……」
 声を掛ける暇(イトマ)もなく実朝は牛車に乗り込んだのだった。
「それが何か……」
「いえ、そのときは何も……」
 ただ、義時は次朗丸の姿が見えないことが気がかりだった。というのも次朗丸と言えば、いつぞや実朝が八幡宮の放生会に参拝しなければならぬ日、酷い宿酔で死にかけた犬のようになってしまい、やむなく身代わりの男を立てたことがあった。
「それが次朗丸にございます。殿と背格好がよく似ておりましたゆえ……」
「面(オモテ)は化粧で……」
 政子は、はっとしたような顔をしてつぶやく。
「げに、面の方はいかようにも……」
 応じながら、義時は、つい笑みをこぼしそうになった。
「今思えば、次朗丸は伊豆にて中将殿を……。その時のひとりにございます」
「なに、そのような者が、そなたのところに……」
 政子の顏がこわばる、が次の瞬間、はっとしたような顔になり「ならば、公暁も仇を討ったことに……」とつぶやいた。
「げに。おそらく、殿とともに謀ったのにございましょう」
「なんと……」
 政子は、袖で面を覆い、その袖が細かく震えている。仇討ち、誅殺……、尽きることのない殺め合いの連鎖を政子も見てきた。そして自身の親、子、孫までもその輪廻に転がされたことを想ったのだろう。
 そして、その公暁も、今ごろは成敗されているはずだ。義時の命を義村が忠実に守ればだが……。
 ――しかし……、これで、これでよかったのだ。
 義時の胸の奥にあった疑心が溶けてゆく。同時に安堵が広がってゆく。
 将軍は討たれた。京から参列した公家衆、そして衆人の目の前で、これだけ大きな変事が起きた。それは隠しようのない事実だ。
 右大臣である鎌倉殿なるものはたった今消えた。そのようなものがあってはならない。鎌倉は帝の臣下などではない。東国は武士のものなのだから。
 そして、たった今、源氏という家は絶えた。これからは……。
 義時が生涯をかけて成し遂げようとしている北条家による鎌倉の支配を、今こそ断行するとき。
 だが……将軍、源実朝は死すとも、姉が腹を痛めた子であり、我が甥の千幡は死んではいない。
 頼家が亡くなってから、政子は密かに頼家の位牌を寿福寺に預け、命日には人知れず弔っていたのを弟である義時は知っていた。そこへ新たに実朝の位牌をも預けられることになったとしたら、これほど不憫なことはない。だが、それはない。いや……、形だけのそれは作られるのかもしれない。しかし姉の子であり我が甥である千幡の魂がそこに宿ることはないのだ。
「なんと、では……」
 泣きはらした政子の顔に希望の片鱗が浮かんでいる。
「そう、殿は亡くなられてはおりませぬ」
 ――おそらく、今ごろは……。

          *

「どうだ三郎、そちもともに参らぬか」
 実朝は僧形の朝盛を見つめる。かつてともに市中を徘徊したときのように、髷を傘で隠しながら僧衣をまとっているのではない。今はきちんと剃髪していた。
 新月を二日後にして、深夜の由比の浜は暗い。幼いころからの友、三郎朝盛の顔もおぼろげにしか見えなかった。
「殿とともに宋へ赴くのは夢でございました」
「嘘を申せ。いつぞやは、象に喰われるのが厭わしいとかで、まっぴら御免という顔をしておったぞ」
 闇の中にどっと笑い声が響く。
「しかし……」
 朝盛が言いかけ、口をつぐむ。先を言おうか言うまいか思いあぐねているようだ。
「私にはやらねばならぬことが……」
 そこまでしか言えぬ、ということらしい。たしかに和田の一族が謀反の汚名を着せられたまま滅びた中で、朝盛だけが生き延びた。このまま僧として一族の菩提を弔うのか、それとも……。
 それは、ついさきほどまで鎌倉の将軍であった実朝に向かっては言えぬことかもしれない。
「そうか。あいわかった」
 それより先は聞けない。聞かなくとも友の心は読めた。
「殿、そろそろ船を出す頃合いかと」
 声をかけてきたのは公暁と駒若が密かに手配した三浦の船長(フナオサ)だ。
「この船長はよくわかっておりますなり」
 闇の中から癖のある言葉が聞こえてきた。
「和卿(ナケイ)、そちがいてくれて心強いぞ」
「今宵は大潮なり。しかも今は夜潮てすなり。これは……」
 新月と満月のころは潮の干満が大きくなる。夏はそれが昼間に顕著となるが、冬季は夜間に顕著となる。和卿の言いように焦れた三浦の船長が口を挟んで手短に説明した。どうやら潮の変わり目にさしかかっていて急がねばならないようだ。
 朝盛との別れに後ろ髪をひかれるような気持を抱いたまま、実朝と和卿は唐船に乗り込んだ。
 あの百人の曳き夫たちでも動かせなかった巨大な唐船が、今、渚で満潮の波に洗われている。
「海の水が満ちたり引いたりすること、それから夏は昼に大きく満ちたり引いたりするのが冬になると夜に大きくなるのは、みな、この大地が玉のようになっていることと大きく関わっているのてすなり。その道理まても、あの船長が解っているのかとうか、わかりませぬか、あの者は、長い船乗りの暮らしから、その頃合いをよく知っておりますなり」
「三浦の船乗りならばさもあろう。だが、今、そちの道理の話を聞く間がない。この後、船旅の間にゆるりと聞くことにしよう」
「我知道了(ウオーツータオラ)」
 和卿は笑顔で応える。その心得たりという意味の宋語を、実朝は和卿の表情で察した。宋語を文字で読むことはできるが、この船旅で和卿から発音(クチブリ)を教わらねばならない。
 唐船は満潮で寄せる波に洗われている。その波で船体が左右に揺れているのもわかった。
「潮が引きに転ずるぞー!」
 船長の声が響く、と、寄せた波が引いてゆくとき船底から大きく軋む音が響いた。あたかも竜が眠りから覚め、うめき声をあげたかのようだ。同時に船体が震える。まさに竜が波打ち際を這い、海に泳ぎ出そうとしていた。
 ―行け! 行くのだ!
 実朝は胸の中で叫んだ。
 ゆっくりと浜に寄せた波が引くとき、奔流となって船を曳いてゆく。それが何度も繰り返される。
 ――そうだ。行け! 行くのだ! そのまま宋まで吾をつれてゆけ!
 大きな竜が頭から水に入ってゆく。
「帆を上げよ!」
 ふたたび船長の声が響く。まだ朝の凪を迎えるには間がある。未だ夜半。風は陸風。すなわち船にとって追い風だ。大潮の引き波と陸からの追い風が帆に伝わって合わされば、おそらくその力は、気を抜かれた百人の曳き夫たちの何倍にもなるだろう。これまで浜に居すわっていただけの唐船に、今初めて帆が上げられる。がつんという振動が帆柱から船体に伝わり実朝の足元に響く。翼を得た竜は唸り声をあげながら一気に海へ滑り出した。甲板からどよめきが起こる。
「やりましたなり!」
 和卿の声が震えて裏返っている。
 船は追い風に背中を押されてぐんぐん沖へ出てゆく。
 まだ日は昇っていない。だが東の空が銀白色に光りはじめた。その淡い光を受けながら実朝は浜をふり返った。鎌倉はまだ闇の中にある。その暗がりの中に、義時、政子、公暁、そして様々なものを置いてきたように思う。
 ――梅よ。春を忘るな。
 実朝は自身を見守り続けた友に向けて胸の中で叫んだ。
 そして、振り切るように船の舳(ヘサキ)を向いた。

 

<つづく> 次回でついに完結。最終回です!

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