代替テキスト『春を忘るな』

5.著作のこと

【連載小説】春を忘るな(1)

      

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     第一章

 昨夜降った雪が日に溶け、濡れた土の匂いがした。
 水を抜かれたプールのように黒い地面が四角く掘り抜かれている。底の日陰に雪が残り、おそらく柱の跡と思われる丸い穴が整然と並んでいる。それはかつて何がしかの建造物がそこにあったことの証だ。
 鎌倉のマンション建設予定地で事前発掘調査が行われ、その一般見学会が催されるという。そんなインターネットの情報を宮下憲二が見つけたのは昨夜のことだった。鎌倉の市街地は、そのほとんどが中世の史跡や埋蔵文化財包蔵地に指定されていて、建築や土木工事を行う際は文化財保護法に定められた事前発掘調査を行わなければならない。大学で考古学を学んだ憲二は、発掘現場に立つと故郷へ帰ったような懐かしさを覚える。古(イニシエ)の人々が踏みしめた地面に立つことで古の人々の蠢く古の街並みが目に浮かんでくる。そんな胸の沸きたつような想いを味わってみたくてやってきたのだ。だが、それだけではなかった。かつて考古学研究室での仲間だった新田杏子(キョウコ)が鎌倉市教育委員会の文化財部にいて発掘調査にも関わっているはずだ。今日の見学会にも調査団の一員として姿を見せるのではないかという期待が憲二にあったのだが、さきほど遺跡の概況と出土物の説明をしてくれた調査員の中に彼女の姿はなかった。

 考古学を専攻し、その道に進むのは簡単なことではない。大学に残って研究者になるにしても、教育委員会や博物館の学芸員になるにしろ、どれもが狭き門だ。新田杏子に考古学への情熱と研究者としての秀でた力があったことは確かである。だが、自分にそれがなかったとは、少なくとも憲二自身は思っていない。
 土のむき出しになった発掘現場を眺めながら、研究者を目指していたあのころに想いを馳せていると、試掘坑(トレンチ)の縁を歩く老人の姿が目に入った。ジャンパーで着膨れし、腰のうしろに手を組んでぷらぷらと散歩でもするようにやってくる。
 ――あ、サネアツ……。
 丸ぶちメガネに丸つば帽子。つばのよれよれになったあの帽子をとれば武者小路実篤そっくりの顔になるだろう。サネアツは考古学研究室の恩師、吉田教授のあだ名だ。もちろん本人に向かってそう呼んだことはない。
 ――どうしよう。
 声をかけようか、かけまいか迷う。あれから十年たつ。一学生だった自分のことなど憶えていないかもしれない。試掘抗の縁は狭い。このまま進めばすれ違う時、どちらかが道を譲らねばならないだろう。丸つば帽に丸ぶちメガネの老人がしだいに近づいてくる。立ち止まる。じっと顔を見られた。
「やあ、君は……」
 言葉とともに出た息が白い。
「あ……もしかしたら、吉田先生、でしょうか」
 たった今気づいたような顔をして、ご無沙汰しておりました、と憲二は頭を下げた。
「たしか……宮下君、そうだよね」
 自分から名のろうとしたときサネアツのほうが言った。
 はい、宮下です、と応えながら、名前を憶えられていたことに驚く。童顔と言われる顔もあまり変わってなく、のっぽで研究室でも頭ひとつ出ていたのが印象に残っていたのかもしれない。
 十年ぶりに見るサネアツは、少し歳をとったな、という印象はあったものの、あの武者小路実篤の肖像写真に似た糞まじめ面は変わっていなかった。
「そうか、来ていたのか、君も」
 丸ぶちメガネの奥にある目が細くなる。その顔が懐かしくて胸の中がぽっと温かくなった。そんな目をしたときのサネアツは心穏やかなときで優しい。怒ったときはメガネの奥で魚の目のように丸くなる。
「青磁碗が出たようだね。鎌倉後期の武家屋敷だろう」
 ひとり言のようにつぶやきながら試掘抗の中に目を落とす。
「はい、さっき調査団の人もそう言ってましたね。ところで先生は今……」
「うん、もう大学のほうは退官したよ。今は……、ああそうだ、君、今、少し時間あるかな?」
 日が冷たく翳るころで、少し時間は早いが吉田の知っている店で一献傾けないか、と誘われた。
 発掘現場から若宮大路までは歩いて数分とかからなかった。二の鳥居で大路を渡ると人のごった返す小町通りに入った。ほとんどが観光客と思われる人ごみをかき分けるようにして横切り、そのまま裏通りへ入った。吉田は中世考古学を専門にしているので鎌倉は主要な研究対象だ。学生時代は憲二も教授のあとについてよく来たが、吉田はおそらく今も頻繁に訪れているのだろう。よく知った我が町のように憲二の前をどんどん歩いてゆく。小町の表通りとは打って変わって路地裏は人の姿がめっきり少なくなる。電柱が多く、目につく高さに店の案内や広告が貼られている。見上げると小川のような細い空に電線が蜘蛛の巣のように走っている。路の角に犬小屋ほどの小さなお稲荷さんがぽつんとあった。屋根に雪が残り、祠の前には油揚げを載せた皿が供えてある。中で一対の小さな白磁の狐が向き合っていた。
「ここだ」
 お稲荷さんの横で吉田は立ち止まった。足元に雪洞(ボンボリ)のような蛍光灯の看板がある。[段蔓]と書かれたそれにはもう灯がともっていた。若宮大路の中心を通る堤のように一段高くなった小路、源頼朝が政子の安産を祈願して寄進したという段蔓(ダンカズラ)。それを店の名にしたようだ。
 吉田が先にたって店へ入る。店構えから想像したとおり中は狭い。五、六人も座ればいっぱいになってしまうカウンターだけのスナックバーだった。客はまだ誰もおらず、開店前かもしれない。

「いらっしゃいま……、あら先生」
 カウンターの中から声をかけてきたのは着物姿の女性だった。
「やあ、今日も暇そうだね」
「こんな時間からいらっしゃるのは先生くらいなものですよ。先生もお暇なようね」
 小首をかしげて笑顔を浮かべる。吉田と同年輩だろうか。それでも切れ長ながら目元はくっきりし、顎の細い顔だちからして若いころはけっこうな美人だったのではないかと憲二は思った。
「いつもながら口が悪いね」
 吉田はよれよれの丸つば帽をとりながらカウンターの真ん中に座った。
「ああ、これは宮下憲二君。私の教え子なんだ」
 吉田がさらりとフルネームで紹介してくれたことにまた驚く。
「こちらはこの店の女将(ママ)だ。八百比丘尼(ヤオビクニ)の女将。我々の業界じゃ女将を知らないのはもぐりだよ」
 そう吉田に紹介された女将は目を伏せて含み笑いした。
「や、八百比丘尼、ですか?」
 民話に登場する八百年の寿命を得た女のことは知っていた。だが、たんなる愛称なのか、それとも高齢の女性ということなのか、吉田の言った意味がつかめず戸惑う。
「先生、あたしは八百比丘尼なんかじゃありませんよ。銀杏の木の精霊。なんど言ったらわかるのかしら」
「ああ、そうだったな。しかし頼朝が来たころからずっとこの鎌倉を見てるんだから似たようなものじゃないか。ちょうど八百年だしね」
 銀杏の精霊とは、どうやら八幡宮拝殿の脇にあった大銀杏のことらしい。
「言っときますけど、あたしは人魚の肉なんか食べてませんからね」
 言いながら、ラベルに[吉田]と油性ペンで書かれたサントリー・オールドのボトルを置いた。
 民話の八百比丘尼は人魚の肉をそれと知らずに食べてしまい、期せずして八百年の命を得てしまった女だ。
「水割り? それとも今日は冷えますからお湯割りにでもしますか?」
「そうだな、お湯割りにしようか」
 どうだね? という顔を向けるので、憲二はうなずいた。と、そのとき、小さな梵鐘を突いたような音がした。つられて目を向けると古ぼけた振り子時計が壁に掛かっている。針はちょうど五時を指していた。
「女将は鎌倉時代のことなら何でも知ってるんだ。我々にとっては生き字引みたいなものさ」
 吉田の言葉に女将は耳だけかたむけ、紺色の紐を袖にあてて襷(タスキ)を掛け、肩口できりりと結んだ。その手慣れた動作が着物に慣れた古風な女を感じさせる。包丁の音がし、突出しの準備を始めたようだ。
「本当は『吾妻鏡』をそうとう読み込んでいるんだ。学者顔負けだよ」と吉田が小声で耳打ちしてきたので「ああ、そういうことですか」と憲二も声をひそめて応じ、ようやく納得した。
 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史ともいうべき文献で中世史の重要な史料だ。研究者だけでなくアマチュアの歴史家、郷土史研究家にも広く読まれている。
「ところで、先生は今、どうされているんですか」
 大学を退官した、とまではさっき聞いたが、その続きが気になっていた。
「うん、例の世界遺産、あれの登録推進委員会の委員をやっていたんだ」
 鎌倉は世界遺産登録に推薦されながらユネスコの諮問機関であるイコモスから不登録を勧告されたため、再挑戦の道を残すべく苦渋の決断でいったん推薦を取り下げることになった。その経緯については憲二も新聞報道で知っていたが、吉田は考古学者の立場で推薦書の作成メンバーに加わっていたという。
「そうだったんですか。あれは残念でしたね」
「いや、まだ終わってはいないがね。イコモスの勧告がああなることは、私としては想定内だったよ。そもそも[武家の古都・鎌倉]というあのコンセプトからして無理があったんだ」
 吉田の顔からそれまでの笑みが消えた。
「武家の古都、と言いながら鎌倉には武家屋敷ひとつ残っていないじゃないか。それで世界遺産というのは少々おこがましいと思わんかね」
 吉田の目が教授だったあのころのようになった。
「委員会の連中はそもそもOUVというものを取り違えているんだ」と苦々しい顔をする。
 世界遺産登録の必要条件であるOUV(Outstanding Universal Value)は日本語で「顕著な普遍的価値」と訳されている。
「あれを訳したのは学者連中だ。そもそもあの訳しかたがまずい。だいたい君、[顕著な普遍的価値]って意味わかるか?」
 吉田に聞かれて憲二は体がかっと熱くなって汗が吹き出しそうだった。ゼミで教授から質問を突きつけられたときのようで応えにつまる。
「まあ、答えられなくても無理ないさ。だいたい学者というのは悪い癖でね、難しい言葉を使えばいいと思ってる。あんな訳しかたをするから学術資料を並べ立てて、鎌倉が武士政権発祥の地であることを学問的に立証するような推薦書にしちまったんだ。まあ、そういう私にも責任があるがね」
 吉田の講義を憲二と女将が拝聴するような雰囲気になってきた。女将は耳だけかたむけ、憲二は背筋を伸ばし、要所でしっかりとうなずく。
「そもそもUniversalを[普遍的]、なんて訳すからおかしくなるんだ。もっと肩の力をぬいて、[世界中の誰もが]、と意訳すればOUVとは[誰もがオーワンダフル! って驚くような素晴らしいもの]って、わかりやすくなる。エジプトのピラミッドしかり、ローマの遺跡しかり。そうだろ? そもそも世界遺産なんてものを考えついたのはヨーロッパの連中さ。目に見えて、凄いなあって感じるもの。そういうもののことを言ってるんだ、彼らは。我々日本人のように、目を閉じれば古の世界が瞼に浮かぶ、なんて繊細な感覚を持ち合わせてないんだよ」
 最後は苦い顔で悪態をつくように言うと、またあのサネアツの顔になってため息をついた。
「そんな目に見えるものが、今の鎌倉に残っているかね」
 弱々しく言って首を横にふる。
 憲二も言われてむなしい気持になった。たしかに鎌倉には寺や神社がたくさんあるが、鎌倉幕府が滅んだとき、当時のものはほとんど焼失してしまった。多くはその後の建て直し、あるいは土の中に埋まったままだ。
「でも先生、だとすれば鎌倉幕府跡を発掘して当時のようすを明らかにできれば……」
 憲二が言いかけると吉田が丸ぶちメガネの奥からぎろりと目を向けた。
「そこだよ、宮下君。それでこそ[武家の古都・鎌倉]というあのコンセプトが生きるってもんだ。だがね、ひとつ大きな問題があってね……」
 難しい顔になって講義が続く。それは憲二にとっても意外な話だった。
 頼朝が置いたとされている大倉幕府は、現在、清泉小学校の校舎が建っているあたりというのが定説になっている。教科書や観光ガイドブックにもそう書かれ、立派な石碑まで立っている。だが吉田は、おそらくそこではないと言うのだ。というのも最近の調査で、そのあたりの鎌倉時代の地面は現在の地表より三メートル以上も下にあって、そばを滑川(ナメリカワ)が流れていることから当時は湿地帯であったことが推測される。若宮大路近辺にあった御家人たちの屋敷よりも二メートルも低い湿地で、川が氾濫すれば水没しかねないような土地に将軍の館があったとは極めて考えにくい。学校の下ということから大規模な調査はできていないが、これまでの試掘では幕府跡と認められる遺構や遺物は発見されていないという。
「だから今回の推薦書でも大倉幕府跡は世界遺産の構成資産から外すしかなかったんだ。[武家の古都]というコンセプトを掲げながら、肝心な武家の政権所在地も特定できていないんだ」
 武人が王族の警護に終わることなく、長期に渡って政権を担うことになったという世界に類例のない稀有な歴史。それがこの鎌倉で始まったという物的証拠。それをいまだ示すことができていない、と吉田は悔しそうな顔をした。
「考古学者である我々の責任は大きいと思うよ。イコモスから不登録の勧告を受けた要因はいろいろ取り沙汰されているが、つまるところ、私はそこだと思っている」
 吉田はそこまで言うと黙ってしまった。店にはまだ他の客はいない。壁の時計から振り子の音がかすかに聞こえてくる。憲二は何も言えなかった。女将は口をはさむのを遠慮しているのか黙って聞いている。
 鎌倉幕府は実在した、と誰もが思っている。だが極論を言えば、それは未だ文献を読み解いて作りだされたイメージでしかないのだ。つまり、ホメロスの叙事詩『イーリアス』に描かれたトロイヤということになる。
「『吾妻鑑』は『イーリアス』ということですか?」
「ま、極論を言えばそうなる。トロイヤは発掘されて、その存在が証明されたが、鎌倉幕府は発掘もされていない。いまだ伝説の域を出ていない、と言われても文句を言えないのさ」
「でも先生、逆に言えば大倉幕府跡を発見できたら世界遺産登録も再挑戦できるじゃないですか」
 言ってしまってから冷たい汗が出そうになった。そんな簡単なことではないだろう。気まずい沈黙の重圧に耐えきれず、つい口から出まかせを言ってしまった。ところが、
「そうさ、そうなんだ。君の言うとおりだよ」
 大倉幕府跡を発見すること。武家政権が確かにこの鎌倉で始まったのだという証を見つけること。それが私のライフワークだ、と吉田は言葉をかみしめるように言った。
「いやあ、久しぶりに講義をしてしまったな。私ばかり喋って……そうだ、君は、今、どうしているんだね?」
 今、どうしているか……。
 吉田の言葉が、ぐさりと胸を指した。

<つづく>

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