5.著作のこと

恵風園の思い出

 これは実話である。私の告白と言ってもよい。
 あれは、伊豆大島の三原山が噴火した年だから昭和61年の11月頃だったと思う。夜の病室の窓から、暗い沖に火柱のような火映(かえい)が浮かんでいるのを、ぼんやり眺めていたのを覚えている。当時、私は31歳で胃潰瘍を患い、恵風園という病院に入院していた。この恵風園は「あること」で少々有名な病院だったが、当時の私はそれを知らなかった。

「手術するほどではないよ。しばらく入院して点滴治療すればよくなるでしょう」
 自宅近くの小医院の医者は、カルテを記入しながら言った。
「どのくらい入院すればいいんでしょう?」
 昨晩吐血し、慌てて医院にやってきた私は、手術は必要ないということに少しほっとしながら聞いた。
「そうだね。ま、入院先の医師が判断することだが、まあ3週間から4週間くらいかな。ところで、ご希望の病院はありますか?」
 ふと、ある景色が目に浮かんだ。
「入院するなら、恵風園に入院したいんですが、あの海沿いの」
 医療的な理由ではなかった。七里ヶ浜の海に面した病院で、そこなら毎日海を眺めていられる。ただ、それだけの理由だった。
「あそこねえ。あんまり薦められないんだけど、まあ、点滴治療だけなら、どこでも同じだから……」
 どうやら医療面では、あまり評判はよくないらしい。
「あそこは、昔はサナトリウムといってね、結核の療養所だったんだよ。だから景色はいいし、まあ、ゆっくり療養するにはいいかもしれないね」
 医者は、しぶしぶ紹介状を書いてくれた。
 そのときの私は、人生で初めての入院に、不謹慎にも少しうきうきした気分だった。というのも、どうどうと仕事を休む口実ができたからだ。しかも3~4週間とは嬉しい。私はメーカーのシステム部門に勤めていて、システムの開発や保守に神経をすり減らす毎日だった。泊まり込みの徹夜勤務はしばしばのこと。夜中に自宅へ電話がかかってきて呼び出されることもあった。今ならば「超」のつくブラック職場で、いささか鬱気味でもあった。胃潰瘍になったのも、おそらくそのせいだろうと医者も言う。
 仕事を離れたときの楽しみ、というより「生きがい」と思っていたのがサーフィンだったので、たとえ海に入れなくても海を見ているだけで心が休まる。私にとって入院宣告は、けして落胆するようなものではなかった。

「今、ちょうど窓際のベッドがあいたので、こちらになります」
 医師の診断と入院手続きを終えると看護婦が病室に案内してくれた。

  注:当時はまだ「看護師」という呼び方はなく、「看護婦」が一般的に使われていたので、本作品中も「看護婦」で統一します。(会話ならば「看護婦さん」)

この病院は全室が海側、つまり全室オーシャンフロントの病室で、先に入院した患者から順番に窓際のベッドを割り当てられるという。その病室は6人部屋で、窓際から3床のベッドが2列に並んでいた。そのとき先にいた患者は一人だけだったので、私にも窓際のベッドが与えられた。大きな窓の外に、紺碧の相模湾が広がり、東は三浦半島、西には亀の子のような江の島が浮かんでいる。思い描いていたとおりの風景に、私は大満足だった。さっそく点滴の針を入れられて身動きは少々不自由になったが、私の気分は上々だった。ただ、建物は古く、かつてサナトリウムだった時代のものと変わっていないようだ。廊下やトイレは老朽化して、あまり清潔感はない。病室の明るさとは対照的に廊下は暗く、入院患者もごく少ないので、夜の消灯時間を過ぎると何やら心細く、一人でトイレに行くのも躊躇(ためら)われた。

「あんた、サラリーマンかね?」
 私が窓の外を眺めていると、対面(といめん)のベッドにいた患者が話しかけてきた。白髪頭の角刈りで、私よりかなり年配の人だった。私は遠い沖のうねりに狙いを定め、それが寄せて割れる瞬間にテイクオフするイメージを頭に描いていた。まさにサーフィンの白昼夢を楽しんでいたところだったのだが、おそらく、その年配患者は、私が退屈していると思ったのだろう。
「ええ、そうですが……」
「あんた、もしかしてコンピューターとかやってる人じゃないの?」
 当たりだったのでうなずく。
「やっぱりねえ。あれやってる人って、たいていやられちゃうのよ、胃潰瘍」
 この後、ずっと話し相手になってくれたAさんは、さもしたり顏で、自身の予想が的中したことに満足そうな笑顔を浮かべた。自分は、地元の腰越で魚屋をやっていて精神的なストレスなどないのに、胃潰瘍とは別の胃腸病になってしまったという。どうやら退屈していたのはAさんのようだ。
「で、さあ、あんた、この病院のこと知ってる?」
 私が、何のことか? という顔をする間もなくたたみかけてくる。
「太宰治、って知ってるだろ。あの昔の小説家」
 もちろん太宰治は知っていた。『人間失格』、それから『走れメロス』は国語の教科書に載っていた。
「あの太宰治が、昔、この近く、ほら、そこの小動岬(こゆるぎみさき)でさ、女と心中事件起こしてさ」
 窓の外、江の島の手前に突き出した岬を指さす。
 噂話では聞いたことはあったが詳しいことは知らなかった。Aさんは、そんな私に、事件のことを詳しく教えてくれた。


恵風園の病室ベランダにて(私)
左奥が江の島、その手前の岬が小動岬


かつて(おそらく)太宰治が運び込まれたころの恵風園病室前のベランダ
(『太宰治 七里ヶ浜心中』長篠康一朗 より)

 当寺、東京帝国大学の学生だった太宰治(本名、津島修治)は、昭和5年の11月、銀座のカフェで女給をしていた田辺あつみ(本名、田部シメ子)と小動岬で心中事件を起こしたという。「事件」というのは、小動岬の畳岩で二人して睡眠薬、カルモチンを服用して自殺を図ったものの、太宰は生き残り、田辺だけが死んだからだ。
「ったく、とんでもねえやつだべ、あの太宰ってやつはよ。他でも何べんも心中事件起こしてよ、女の方だけ死んでるのさ。んで、太宰は、この恵風園に運び込まれて助かったんだべよ。自分だけ薬少なく飲んだに決まってらあ。警察の取り調べの間も、悪友連中を病室に呼んで、どんちゃん騒ぎやってたらしい」
 Aさんは、腰越弁でまくしたてた。
「んでよ、その顛末をしゃあしゃあと小説に書いてるんさ。俺は読んでねえけんどな」
 ――なるほど、ならば、その小説とやらを読んでみよう。
 太宰治の短編集『晩年』に収められた『道化の華』がそれだという。
 私は、妻に頼んで文庫本のそれを買ってきてもらった。

 そろそろ消灯時間になる。
 枕の横には、さっき読み終えた『道化の華』を収めた『晩年』の文庫本があった。
 太宰(津島)自身が大庭葉蔵。田辺あつみ(田部シメ子)が園(その)。恵風園が青松園と名を変え、カルモチン服毒自殺が入水自殺になっていた。それ以外は、かなり事実に近いらしい。女と心中を図って自分だけ助かりながら、病院の付き添い看護婦に微妙な恋愛感情を抱くとは、Aさんの言うように「とんでもねえやつ」と私も言いたくなった。だが……。主人公の「葉蔵」に自身(太宰)を重ねながら、「僕」という作家(太宰)であり別人格の想いが作中を交錯するところに、二重人格的な狂気と不可思議な響感を覚えた。
 ガラス越しの遠い夜空、水平線のあたりに小さな赤い火柱が立っている。それは、数日前噴火した伊豆大島三原山の「火映」というものらしい。噴火の炎そのものではなく、火口内の溶岩の灼熱が上空を赤く照らす現象で、大島では御神火と言われているという。

 私は、その神秘的な夜の光景に見とれていた。が、ふと、その赤い火柱に重なるようにして、ぎろりとした目でこちらを見つめる男のいることに気づいた。それは私自身の顔が窓ガラスに映っているに過ぎないのは分かっていたが、まるでもう一人の別人格の男が私を見ているように思えた。
 おまえは仕事から逃げ出し、こんなところでのうのうとしている。それでいいのか? 恥ずかしいとは思わないのか?
 男が、無言でそう言ってるように思えた。
 私は、その男の言葉を無視した。おまえに何がわかるのだ、と。

 消灯時間になり、病室の灯が、蝋燭の炎を吹いたように消えた。そのときになって、私は就寝前のトイレに行ってないことに気づいた。点滴は外れていて自由に動ける。少々億劫ではあったが、ベッドから足を下ろし、スリッパを履いた。
 消灯後の病院の廊下はうす暗く、正直気味が悪い。何しろ入院患者がとても少ないので、廊下で人とすれ違うこともほとんどない。まるで、古い学校の木造校舎の廊下を夜歩いているような気分だった。病院特有の消毒液の匂いにトイレの安っぽい芳香剤の匂いが混じる。と、廊下の奥に人影が見えた。夜勤看護婦の巡回かと思いきや、どうやら男のようだ。ふだん医者の姿は、ほとんど見たことがないので、おそらく患者だろう。近づいてくる。長身、といっても私よりやや高いくらい。やせ型。まるで褞袍(どてら)のような分厚い着物を着ている。私はぶつからないよう、左に避けながらすれ違う。相手は、あまり避ける気配を見せることなく、まっすぐ前を向いて通り過ぎてゆく。が、すれ違いざま、わずかに目が合った。眉が濃く、鼻が縦に長い。私と同年配の患者のようだった。私は、軽く会釈したが、男は無表情。ただ暗かったので、そう見えただけかもしれない。
 ――こんな患者さん、いただろうか……。
 大きな病棟のわりに入院患者の少ない病院だったので、大抵の人は顔見知りになっていた。昨日今日に入院した人かもしれない、と、その夜は気に止めることなく寝た。
 翌朝、何気なく文庫本を開いた私は、おや? と思った。
 その文庫本には表紙カバーがかかっていて、表紙の内側に著者紹介が印刷されている。
 太宰治 Dazai Osamu 1909―1948
 太宰治の作品なのだから当然だ。だが顔写真に目が留まった。その濃い眉毛、縦に長い鼻……。
 ――こんな感じだった……。
 昨夜、廊下ですれ違った男に似ているような気がした。

 朝の検温に来た看護婦に聞いてみる。
「ここ数日の間に入院した患者さんています?」
「一番新しい方は一週間前に入られたお年寄りの女性がいますけど、何か……」
「女性ですか……」、と諦めかけ、「あの、褞袍みたいな着物を着てる男の人って、いません?」と、もう一度聞いた。
「ドテラ? あの厚い丹前みたいなの?」
 私はうなずく。
「うーん、ちょっと分かんないです……」
 心当たりはなさそうだった。
 それ以来、胸の奥に小さな気がかりは残ったが、入院の日々は過ぎていった。 
 私は、それからもAさんとの他愛ない会話と、沖から押し寄せるうねりに狙いをつけて、白く割れる波にテイクオフする幻のサーフィン白昼夢に耽る毎日を過ごした。だが、夜になると、窓越しの暗闇の向こうに映る男との鬱陶しい会話から逃げることは出来なかった。そして、あの夜廊下ですれ違った男とは二度と会うことのないまま、やがて退院することになった。
 以前の日常にもどった私は、朝になると江ノ電に乗り、鎌倉から横須賀線で東京へ向かった。江ノ電が七里ヶ浜沿いを走るときは必ず海の波をチェックする。波の良い日は稲村ヶ崎駅に着くと、そのまま降りてUターンしたくなる誘惑と必死に闘う。やがて車掌の笛が鳴り、電車の扉が閉じるのを見て諦める。そうして超ブラック職場に向かう毎日の中で、やがて、いつのまにか「小説」なるものを書くようになっていた。小学生のころは、原稿用紙1枚の作文を書くのも苦にしていた私がだ……。自分でも、それが不思議でならない。
 そしてもうひとつ書き添えなければならない。あの思い出深い恵風園の建物は取り壊され、今は更地になっている。

 『道化の華』という一編の小説が、何かを私にもたらしたのか、それとも、あの夜……。
 いや、やめておこう。
 最後に、『道化の華』の終盤の一節を記して、この実話小説を終わることにする。

 葉蔵はきょう退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れていた。それは愚作者のだらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉蔵を救いたかった。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらいたかった。
(太宰治『晩年』新潮文庫 より)

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