5.著作のこと

蓮池(3)― 追憶 ―(最終回)

前回までのあらすじ
坂本浩一は、一粒の蓮の種を窓から投げ捨てた。それは幼いころ、二宮初江と蓮池で遊んだ想い出の標(しるし)であるとともに、妻、洋子への裏切りの証でもあった。初江への想いを清算したつもりではいたが、病の心痛からか、ふと初江との想い出がよみがえるのだった。
 病のせいか、昔の記憶ほど鮮明に浮かびあがる。高校に入ったころ全共闘運動にのめり込み、洋子とは戦友のような間柄となって絆を深めていった記憶がよみがえる。
蓮池(2)コチラ
 

 天井を見つめたままだった。
 天井がスクリーンになり、そこに映る想い出を見ていた。
 窓の外には黒い松原が広がり、雲が流れてゆく。だが浩一は体を起こして窓の外を眺めることはなくなっていた。食事はほとんどすることなく、鏡を手にすることもなくなった。きっと骸骨のように痩せ細っているに違いない。

「食べ……食べれない」
 そう言いたくても言葉が明瞭に出なくなっていた。
(看護婦さん。鼻から管を入れてどろりとした栄養剤を体に流し込むやつ。あれは嫌だな。ぼくを、そのまま放っておいてくださいな)
 そう言いたいのに、うまく言葉にならない。
「だいじょうぶ。だいじょうぶですよ。今朝もちゃんと食べられてますから。元気出してくださいね」
 食事などとった覚えはない。看護婦は自分を元気づけようと嘘を言っている。もうすぐ自分は死ぬのだ、と浩一は天井を見つめたまま思った。

 池いちめんを蓮の葉が覆っている。
 白い天井のスクリーンに蓮池の風景が映った。
 少し離れたところから眺めると、そこは池に見えない。まるで里芋畑にローズピンクの花が咲いているようでもある。だが冬になって葉が枯れ落ちると、空の雲を映した水面があらわれ、そこが池であったことに誰もが気づく。
 浩一は池の畔に落ちた黒いドングリのようなものを拾い集めていた。岸にうちあがって乾いているものもあれば、浅瀬に沈んでいるものもある。ときには水中のヤゴが大玉転がしでもするようにしっかりと抱え込んでいることもある。そんなとき浩一は水辺にしゃがんでじっとそれを見つめていた。大きな鋏を振りかざし、毒々しく赤黒い色をしたバルタン星人のようなザリガニが近づいてくることもある。心太(ところてん)の芯に黒い胡麻粒が透けて見えるようなカエルの卵が底で絡み合っている。そのまわりをすでに孵ったオタマジャクシが泳いでいる。カルガモの親子は人を恐れない。母さんガモが子ガモを従えてすいすいと傍まで泳いでくることもあった。
「お父さーん、ご飯ができましたよ。早く帰ってきてくださーい」
 幼い母さんの声がした。水の中の生き物たちに見とれていた浩一は声のしたほうをふり向く。
 茣蓙の上にちょこんと座り、手を振る幼い初江が笑っている。その辺りは大木の陰になっていて涼しそうだ。
 浩一は玉網を水につけることなく岸に上がった。濡れた足のまま運動靴をはいて初江の座る茣蓙へもどった。
「わあ、蓮の種たくさん採れましたね、お父さん」
 玉網に入った黒いドングリのようなものをプラスチックの笊(ざる)にあけると初江が大げさに驚いた顔をした。
「うん、今日のシューカクはこれだけだ」
 大仕事をしてきたかのように威張った顔をする。

 少しまえ、誰かに教わるまで二人は蓮の種のことを黒いドングリと言っていた。形も大きさもドングリにそっくりなのに色だけが黒い。その蓮の種が二人のままごと遊びではご飯であり、おかずになり、おやつにもなった。プラスチックの茶碗にも皿にも黒い蓮の種が盛られている。
 浩一がプラスチックの箸で皿に載った黒いそれを摘まもうとする、とつるりと滑って箸から逃げる。何度やっても駄目。それを見た初江がお上品に口に手をあて、くすくすと笑った。
「お父さん、これをお使いになったら?」
 はい、と言ってプラスチックのスプーンを渡された。
 仕草も言葉づかいもそれぞれの親をまねていたに違いない。夫婦のまねごと。それが浩一と初江のままごと遊びだった。
「あっ、あいつらだ」
 蓮の葉の隙間から向こう岸を歩く子供三人の姿を浩一が見つけた。さっと陽が陰ったように気持ちが暗くなる。またからかわれるに違いない。二人でままごとをしているのを見つかると、いつも浩一は〈男おんな〉と囃したてられるのだ。初江も頭を小突かれたりして泣きだす。あいては今年小学校へ入った年上の少年たちだ。かなうわけがない。
「初江ちゃん。行こう。またあの子たちが来るよ」
 茣蓙やままごと道具を片づけている暇はない。すぐに逃げなければならなかった。
 運動靴を履くと初江の手を握った。走りながら隠れ場所を探す。低木の植え込みがあった。小枝を掻き分けると中にかろうじて空間がある。まだ体の小さな二人ならなんとか潜りこめそうだ。
 鬱陶しい小枝に邪魔されながらも初江の手を握ったまま屈んで息を潜めた。
 地面から足音がする。話し声が聞こえてくる。
「おかしいな。あの茣蓙があるってことは、またあいつらが来てたはずなんだけどな」
「あの男おんなのやつ、どこいったんだろう」
 植え込みの中で聞き耳を立てながら、浩一は握った手をさらに強く握った。初江も握り返してきた。浩一はだいじょうぶだよ、ということを伝えるためだった。おそらく初江のほうはわかった、という合図だったに違いない。三人に見つかりそうで怖かった。見つかれば、二人で隠れていたことを囃したてられ、からかわれる材料がまた増えてしまう。
 それでも初江の手を握っていると不思議と安心できた。ずっとこのままでもいい、という気もしてくる。
 何かの虫の羽音がし、首のあたりをちくりと刺された。じっと我慢した。少々の不快を我慢してでもこうして隠れてさえいれば、やがてあいつらもいなくなる。また来たら、また隠れればいい。初江と二人だったら何度でも、そしていつまでもそうしていられるような気がした。

          *

 廊下のつきあたりに窓があり、大きく開け放たれていた。松林が広がり、その向こうには海があるはずだが木に隠れて見えない。そこは浩一の部屋と壁ひとつ隔てて隣あい、同じ景色が見えていた。
 その廊下の開け放たれた窓のそばで立ち話をしている三人がいた。
「ここは禁煙なんですよ」
 そう言った女は職員の服を着ている。
「ああ、そうだったわね」
 言われた女は火をつけようとした手を止め、その煙草を青いハイライトのパッケージに戻した。
「坂本さんたら、私のこと、いつも看護婦さん、て呼ぶんですよ」と職員の女が困ったような笑みを浮かべる。
「ほんとに介護士さんのお仕事も大変ですよね」
 青いパッケージを手提げバッグにしまいながら女はため息をついた。
「ちかごろはすっかり子供みたいになってしまって。あの病気は、最近のことはすぐに忘れてしまうんですけど、昔のことになればなるほどよく憶えているんですよね」
 介護職員の女性はそれだけ言うと軽く会釈してその場を去っていった。
 たばこをしまった女と上背のある男が残った。

「若年性の、なのよ。おたがい気をつけないとね。とは言っても気をつけようもないか」
 あっけらかんと笑って男の顔を見上げた。
「ぼくも驚いたよ」
 男の歳格好は女と同じくらいだ。
「ここで木村君に会うとは思わなかったわ。奇遇よね。高校のときサッカーの全国大会出てるのテレビで見たわ。凄かったじゃない。たしか準決勝まで行ったのよね」
「ああ、サッカーひと筋だったからね、俺。もしあのころJリーグがあったら絶対行ってたんだけどな」
「で、今は何やってるの?」
「市役所勤めの役人さ。このまえの異動で介護保険課に移ったんだけど、要介護認定申請者のリスト見てたら坂本浩一という名前を見つけてね、もしかしたらと思って来てみたんだ。それにしても、あの湘北中の魔女、工藤洋子が坂本の奥さんになっていたとはね、驚いたよ」
「奥さん?」
 女は一瞬きょとんとした顔をし、それから表情を崩した。
「何言ってるの、あれは彼の思い込み。妄想なのよ。私も成りゆきで合わせてはいるけど、あいつと結婚するはずないじゃないの」
 冗談にもほどがある、というように笑いながら、目は遠くの松林を見たままかたまっている。
「えっ? そうだったの。さっき二人が話してるの、横で聞いていて、てっきりそうなんだと思ったよ。だって君たちがいっしょに学生運動やってる、て噂もあったから、きっとその腐れ縁でゴールインしちゃったんだな、って思いながら聞いてたんだけど」
「まっさかあ」
 口もとに笑みを浮かべながら目は遠くを見ている。
「浩一は初江に首ったけよ。人も羨むおしどり夫婦だったわ。子供はできなかったみたいだけど」
「初江、て?」
「ほら二宮初江、知ってるでしょ? 美術部にいた。でも彼女、おとなしくて目立たなかったから……」
「ああ、あの埴輪ちゃん?」
「そうそう、その埴輪ちゃんよ」
「そうか、おっとりしてて、目のやさしそうな子だったね。そういえば坂本とは幼なじみだったよな」
「そう。もう浩一は彼女のことばっかり。私のことなんか……」
 遠い目をしたまま、ふと表情が止まった。
 その顔を、男が訝しげな顔をして覗き込む。
「え? 私?」、と男を見返して、「あ、まあ、ちょっとの間ね、そんなようなことも……」と、少し慌てたように表情が揺れ、口ごもる。
「つきあうってほどではなかったのよ。ほら同じ高校で運動やってたでしょう、私たち。あ、スポーツじゃなくて学生運動のほう」
 そのことなら知っているとばかりに男がうなづく。
「まあ、ちょっとした偶然でね。二人だけになったことがあって」
 目が遠く宙を漂う。
「ふうん、ちょっとした偶然ね」
 男は、いたずらっぽい目をしてにやりと笑った。
「まあ、成り行きでね。そのときあいつ、変な気おこそうとしたから、私、メットで殴りつけてやったの、思いっきり」
「メット?」
「あ、ヘルメットのこと」
「ヘルメットね」
 男はなにか腑に落ちない顔をしながら、「でも、あいつもやるときはやるんだな。優柔不断なやつだと思ってたけど」とひとり言のように言った。
「優柔不断なんてもんじゃないわよ、まったく」
 小声でつぶやき、恨みがましいような目で遠くを見つめる。と、時間の止ったような間があいた。
 潮の匂いのする風が窓から舞い込み、澱みかけた空気を吹き払う。
「あいつ、けっこう気があったんじゃないの、君に」
 男の言葉でふたたび時が動き始めた。
「うん、かもね」と冗談めかしたように肩をすくめて微笑む。そして空に浮かぶ真綿のような雲を眺め、その向こうにある何かを見ていた。
「いつだったか、大学入ったころだったわね。あいつ私の下宿にワイン持ってきたことがあったの。私の誕生日憶えてて。私はすっかり忘れてたんだけど。だってスーパーでヒジキの煮もの買って帰ったとこだったのよ。笑っちゃうでしょ。ヒジキつまみに赤ワインですもの、ムードもなにもあったもんじゃないわよ」
「へえ、けっこうマメなとこあるんだな、あいつ」
「そう、たしかにちょっと優しいとこはあったわね、優柔不断な軟弱男だったけど」
「ヒジキじゃなくてチーズとフランスパンだったら変わってたかな?」
 男が横眼で女を見ながら口の横で小さく笑った。
「かもね」と言いながら、ありえない、と茶化して笑うと、その顔が冷たく褪めた。
「ほんと、軟弱で日和見(ひよりみ)」
 また恨みがましい目になって遠くを睨む。
「教師になる、って言ってたくせに、初江と再会したとたんクイックターン」
 短大を出た初江は商社に勤めていて、周囲はエリート商社マンばかりだった。そのときまだ学生だった浩一は教師になることをあっさりやめ、企業に就職した。おそらく初江のまわりにいる男たちへの対抗意識だったのだろう、という。
「日和見! てさんざん言ってやったわ。ほんと軟弱で駄目なやつだったけど、初江への気持ちだけは堅かったみたい。卒業してすぐに結婚しちゃったわ」
 遠くを見ていた目を伏せ、冷たく微笑む。
「そうだったんだ。じゃあ埴輪、じゃなくて、その、奥さんは……」
 男が言いかけたとたん、女の顔が曇った。
「八年前、だったかな。亡くなったの。前に患った癌が再発したんですって」
 男が深いため息をついて目を伏せる。
「一昨年だったかしら。浩一からの年賀状が来なくなったんで、どうしたのかな、て思ったらここに入ってたのよ。初江のことが相当ショックだったみたいね」
「そういう人、けっこういるみたいだよ。奥さん失くして、急にぼけちゃうんだって」
 男はまたため息をついた。
「最近、私が見舞に来るようになってから、私と夫婦のつもりらしくって、ああなのよ。まったくいい気なものよね。きっと初江の死んだことを受け入れられなくて現実逃避してるのよ。逃げるの得意だったから、あの人……」
 女は伏し目がちになり、窓の下を見下ろした。と、
「あら、あんなところに、蓮の花かしら……。このまえ来たときには気づかなかったけど」
 女が指さした窓の下を、男は体をのり出すようにして見下ろした。
 裏の駐車場に向かう通路に沿って細長い花壇があり、ちょうど浩一の部屋がある真下あたりに小さな水たまりほどの池があった。そこから内輪のような葉をひろげた蓮がすっくと立ちあがり、ローズピンクの花を咲かせていた。

「あんなところに一本だけ蓮が生えてるなんて、なんかへんだね」
 不思議そうな顔をした二人が下を見つめる。
「そういえば蓮池ってあったじゃない。ほら湘北中から小学校のほうに行った辺りに」
「ああ、あったね。でもあそこは衛生上の問題とかいろいろあってね、埋め立てることになったんだ。反対した住民もいたんだけど……。今ちょうど最後の埋め立て工事やってるはずだよ」
「そうなの。自然があって、いいところだったのにね」
 女と男は開け放たれた窓から、小さな水溜まりに、一本だけ立った蓮の花をいつまでも見下ろしていた。

 浩一は夢うつつの中にいた。幼いころの記憶だけがかろうじて現れては消え、また現れては消えてゆく。
 茣蓙を敷いたあたりは大きな木の陰になっていて、わずかな木漏れ陽が二人に降りそそぐ。
「浩一くん。見て、とってもきれいよ」
 幼い少女が指さした先を見る。
 雲間から射す陽が池を照らしている。そこだけがぽっかりと明るく浮かび上がる。

 蓮の葉が幾重にも重なるように池を覆っている。その濃い緑の波間にローズピンクの花が浮かぶ。手前の大きな葉にギンヤンマが羽根を広げてとまったまま動かない。蓮池の風景が絵のように浮かび、静止する。

 陽の翳った二人のいる場所とは対照的に、池は眩いばかりの光りに包まれている。葉も花も光りに照らされて輝く。
 池の全体が、しだいに銀白色の輝きに包まれてゆく。二人はじっとそれを見つめている。すべてが白い光りに包まれてゆく。見つめている二人もその中に……。
 やがて白く、より白くかすみ、絵が描かれる前のカンバスのように真っ白になった……。

おわり

※作品中の挿絵は、写真及び著者の詳細指示に基づいてAIで作成した画像を加工編集したものです。


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