代替テキスト『春を忘るな』

5.著作のこと

【連載小説】春を忘るな(8)

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■前回までのあらすじ
 疱瘡を患った実朝は、熱にうなされて自らの首を切られる悪夢を見、自身も兄や父のように殺されるのではないかという疑念を抱く。やがて疱瘡が癒え、鏡に映った自身の顏を見て失望するが、師の栄西から授かった『大唐西域記』に、未知の西域への想いを馳せた。武芸も好んで励んだが、義時の前では武芸下手の和歌好きを演じる。幼友達の和田朝盛とともに托鉢僧の姿に身を隠し、鎌倉市中を視察。実朝は、館の中にいては決して見ること、体験することのないものを見聞きし、庶民の目線で歌を詠んだ。

     * * * 

 頭の中に岩でも入ったのではないかと思うほどずっしり重く寝苦しい。うすく瞼を開くと、天井の杉板の木目がぐにゃりぐにゃりと波打っている。体を起こそうとすると大波に浮かぶ船のように母屋が大きく揺れている。にわかに胃の腑からこみあげるものがあった。
「だれぞ桶を持て!」
 うめくように言ったのが聞こえたのか聞こえなかったのか、遠くから問い返す女の声がした。
「早う……」
 言い終えぬうちに胸までこみ上げていたものが喉を突き破って飛び出した。饐えて苦いものが口の中に残る。
 侍女が桶をさし出してきたが、すでに間に合わなかった。
「お着替えを」という声が遠くで空ろにする。
 宿酔である。実朝が酒を嗜み始めてから幾度か経験しているが、今日はいちだんとひどい。
 昨夜は庚申(コウシン)の会だった。
 人の体の中には三尸(サンシ)の虫なるものがいて、いつもその人の悪業を視(ミ)ているという。そして庚申の日の夜、寝ている間に体から抜け出し、天に登って天帝に日頃の行いを報せ、重なった罪業の程合いによって寿命が縮められと言われている。そこで、三尸の虫が体から出て行かぬよう、その夜は皆で集まって神々を祀り、その後歌会や酒盛りなどをして寝ずに夜を明かす。この慣わしがもとは宋から来たということもあって、実朝はこの寝ずの日を忠実に守っていた。昨夜はひと晩じゅう歌会を開いて寝ずにいるはずであったが、つい酒が過ぎてどうやら酩酊してしまったようだ。すでに三尸の虫は実朝の体を脱け出て天帝に罪業を告げてしまったかもしれない。
 重い頭の中に昨夜の光景がよみがえる。

「次は殿の番ですぞ」
 朝盛(トモモリ)もずいぶんと酔いながら実朝に歌を催促した。女たちがじっと見つめる。その中に信子の姿はない。庚申の慣わしには冷淡で、もう寝てしまったようだ。

 わが恋は百島(モモシマ)めぐり浜千鳥ゆくへもしらぬかたに鳴くなり

 酔って大胆になっていた。捨て鉢になり、胸の内を隠すことなく、心を素っ裸にして見せびらかしているような気分だった。

「百島(モモシマ)めぐり浜千鳥……」
 朝盛が半開きの扇子で顔を覆うかのようにしながら口でなぞる。まめまめしく感慨を述べるか、戯言として茶化してしまうか考えあぐねているようだ。
「お安くありませぬな」
 目を伏せながらぽつりとつぶやく。ひとたびは真に受けながらも、この場の女たちの手前、茶化そうとしているらしい。
 行く先も知れず干潟に鳴く浜千鳥は実朝の本音ではあったが、それを破れかぶれ叫ぶように表したのだった。
 あの恋を胸の中から消し去りたい。ならば恋とは関わりなく、この場にいる女たちを肉欲で貪ってやろうか。そうしたからとて将軍を諫める者はいない。
 ―いっそのこと。
 むらむらと体の中に沸きあがるものを押し流すかのように杯を呷る。
 ――女たちは、この顔の痘痕から目を背けながらも、じっと堪えておとなしく抱かれるだろう。
 燈明に照らされる女たち。みな妖艶な笑みを浮かべて実朝を見つめる。だが、その顔の半面は陰。そこに隠れた表情を読み取ろうとした。
「殿、少し酒が過ぎますぞ」
 朝盛の声ではっとする。どうやら目蓋を閉じていたようだ。
 ――いや、眠ってはおらぬぞ。
 目には見えないながら、出かかった三尸の虫を掴んで胸の中に押しもどす。
 誰も吾の心を知る者はいない……。この朝盛ですら……。虚空の中にひとりたたずむ自身が目に浮かぶ。
「ではもう一首」

 奧山の岩垣沼に木の葉おちてしづめる心人しるらめや

 今詠んだ歌ではなかった。ひとり、遠くの山を眺めながら詠んだときの歌が、酩酊の中でふと口をついて出た。
 奥山の岩に囲まれた沼に、木の葉が落ちて沈んでいる情景が目に浮かぶ。その落ち葉のような吾の心……。
 ――おまえたちにはわかるまい。
 胸の中に大きな空洞ができ、それを埋めるものがない。
 どうしようもない苛立ちをぶつけるように、また杯をあおった。
「殿……」
 朝盛の声が遠くで聞こえた。が、そのまま奈落の闇に落ちていった。


 ――これではとても八幡宮へ詣でることはできまい。
 桶の縁を握りしめながら思った。と、また自身の意に反して体が勝手に胃の腑の中のものを絞り出そうとする。
 この日、実朝は鶴岡八幡宮で行われる放生会に参拝することになっていた。だが……。
 ――もし神前でもどすようなことがあったら。
 坂東武者たちの崇める八幡神を汚せば顰蹙を買うだろう。将軍とはいえ、あくまで八幡神の僕なのだから。御家人たちの将軍への信頼は失墜する。

「情けのうござる」
 義時が訪ねてくるなり吐き捨てるように言った。
「そもそも……」
 執権というより、叔父が甥に対するがごとく、くどくど小言を言われたようだが、死にかけた犬のような頭にはまったく効かず、泥水が流れるごとく素通りしていった。
「誰か代わりに詣でに行ってくれるものはおらぬものかのう」
 小さな声で、つい本音をもらした。
 それを聞いた義時が冷たい目でじっと見つめてくる。
「まったく、情けのうござる。が、しかし……」
 しばらく、何かを考えているかのように、じっと遠くを見つめる。
 そして……。
「いたしかたない。では……」
 何か策が浮かんだ、といように義時の目が一点を見すえる。そして……。
 このとき、実朝は義時に大きな借りを一つ作ったのだった。

          *

 建暦三年五月二日。夕日が梅の木を照らしている。齢二十二となった実朝は御所の渡殿ですでに花の散った細枝をぼんやり眺めていた。
「殿、大事にございます」
 直垂の袴の裾を乱しながら、慌ただしく入ってきたのは執権、義時だった。
「いかがした、相州」
 夕日がまぶしくて義時の姿がよく見えない。
「和田の左衛門尉(サエモンノジョウ)が挙兵したとの報せが入りました」
 息を切らしながら口早に言った。
「なに、どこぞで揉め事でもあったか?」
 和田義盛は侍所別当である。そのため武家どうしの諍いがあれば出向いて仲裁するなどの処置をしなければならない武門を統括する立場にあった。
「いえ、謀反にございます!」
「謀反だと? いったい誰への謀反というのだ」
「おそれながら、鎌倉殿への……」
 鎌倉殿、つまり将軍、実朝に楯を突いたというのだ。
 ――あり得ぬ。あの爺が……。
 父、頼朝の忠臣で、実朝にとっては祖父のような存在であった。
「戯言を申せ。なにかの間違いであろう」
 実朝自身も幼いころは祖父のように慕い、義盛もずっと自分を可愛がってくれていた。何かの間違い。そう思いたかった。
「いいえ、すでに兵を挙げて、この御所に向かっております。おそらく、先般の泉親衡の件に不満があるのかと……」
 義時は苦虫をかみつぶすような顔をした。
 泉親衡の件とは、御家人の泉小次郎親衡が二代将軍、頼家の妾子千寿丸を鎌倉殿、つまり将軍に擁立し執権北条義時を打とうとした事件である。
 その謀議に和田義盛の子、義直、義重、甥の胤長(タネナガ)らが加わっていたとされ、直ちに捕縛したが、義盛の嘆願で義直、義重は許すこととした。だが甥の胤長については首謀者の一人であるとの裁定が下り、陸奥国へ配流、屋敷は没収と決まった。
 実朝は二月ほど前のあの日を目に浮かべた。裁定を知った義盛が御所に一族百人ほどを引き連れてやってきた。南庭に一族が座し、義盛がその最前面にいる。
「なにとぞ平太めをお許しくだされませ」
 義盛が甥、胤長の赦免を願い出て地べたに額をつける。最たるへりくだりの態度ではあるものの、背後に一族百人を従えていれば、威圧感も相当なものだ。
「平太は小次郎とともに謀議を企てた者だ。許すわけにはいかぬ」
 実朝の横に侍る義時が厳しい口調で断じた。和田平太胤長は泉小次郎親衡の共謀者であると。
「それは何かの間違いにござる。たしかに平太は小次郎に呼ばれて宴の席に参りました。しかしその席で謀議企ての話など出なかったと申しております」
 かつての強者(ツワモノ)義盛も今は折烏帽子の脇から下がる髪が真っ白だ。地べたに伏す体も痩せ細っている。
「それはそのまま信ずることはできぬ。その宴に連なったものが、たしかに千寿丸君を擁して兵を挙げる話をしていたと申しておる」
 それを報告してきた者は許したと義時は言ったものの、それが誰かは言わなかった。
「しかし当の泉小次郎が逐電したとあっては、この件の真がわからぬではござらぬか」
 義盛の口調がにわかに強くなった。地に手をつけたまま上げた顔も険しく義時を睨みつける。おそらく、泉親衡を捕縛に向かった義時の手勢が親衡を取り逃がしたのは義時の手落ち。というより、胸の内では、故意に取り逃がしたのではないかと疑っているのだろう。
 ――その疑いは、しかと考えられる。相州のやつめ……。
「のう、相州。ここは左衛門尉の言い分も聞いてはどうか」
 実朝は義時に向かって小声で言った。真相はさておいても、甥を助けようと必死になっている義盛が不憫だった。
「甘うございます」
 即座に言葉が返ってくる。扇子で手の甲をぴしゃりと叩かれたかのようだった。そして、「この件は将軍家を、いやこの鎌倉を倒そうとする企てですぞ、手ぬるい裁きをしたのでは示しがつきませぬ」
 厳しい目線が実朝に向けられる。
 ―ならば、なぜ小次郎を取り逃がした。
 つい口をついて出そうになった。本当はわざと取り逃がしたのではなかろうな、と義盛に与したくなる。だが義時の矢のような目線に気圧されて声にならなかった。
 ――あの事もあるし……。
 義時には大きな借りがある。あの宿酔で八幡宮の放生会に行けそうになかった時……。
 それに、たとえ将軍であっても脳病とされてしまえば、何を言っても病による戯言でしかない。手足を捥がれ、魂を抜かれたも同じ。伊豆に幽閉されてそのまま抹殺されかねない。
 事実、兄、頼家がそうだったのだから……。
「ここは執権殿の申されるとおりかと」
 隣に侍っていた大江広元が低い声でうめくように言った。すでに齢六十五になるこの老練な文官の言葉は重い。頼朝ですら、こと政においてはこの男の忠言に従っていた。これだけの謀議に下手人をひとりも挙げなければ示しがつかない。それはその通りだ。誰かが生贄にならなければならない、ということだろう。
 ――爺、許せ。
 将軍、執権、政所別当、三人のやり取りが義盛に聞こえたかどうかはわからない。せめて死罪は免ずるよう実朝が下し、和田平太胤長は陸奥の国へ配流と決まった。
 南庭に座す和田一族の目の前で胤長は荒縄で縛りあげられた。それは武士としての面目さえも潰されたに等しい。罪人として引き連れられてゆくとき、和田一族の中から呻くようなどよめきが上がった。武門の頂に立ち、執権に次ぐ地位である侍所別当の一族から罪人が出た。それは大きな屈辱であった。

 ―爺、はやまるな。まずは話しに来ればよいではないか。
 花のなくなった軒端の梅を見つめ、実朝は唇を噛んだ。
 ――そうだ、三郎はどうしているだろう。よもや三郎までもが加わっていることはなかろうな。
 和田朝盛は義盛の孫である。幼いころから、まるで従兄どうしのように仲良く育った。今ではこの鎌倉でただひとり心の許せる友といってよい。
 時は酉の刻、夕暮れが御所の南庭を覆いはじめていた。

<つづく>

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