5.著作のこと

【連載小説】春を忘るな(17)

この記事は前回からの続きです。
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■前回までのあらすじ
 大学で考古学を学んだ憲二は、恩師、吉田教授と小町裏通りのスナック[段葛]で歴史談義する中、[段葛]の女将(ママ)は鎌倉時代を、まるで見てきたかのように語りだす。
 実朝は疱瘡を患い、熱にうなされて自らの首を切られる悪夢を見、自身も兄や父のように殺されるのではないかという疑念を抱く。やがて疱瘡が癒え、鏡に映った自身の顏を見て失望するが、人前では公家のように化粧をし、宋への憧れを抱き続けた。和田義盛が乱を起こすが、幼なじみの和田朝盛からの手紙で、和田に謀反の心はなく、義時への抵抗だったことを知るも和田は滅ぶ。
 陳和卿(チンナケイ)という宋国出身の僧がやってくる。実朝は喜んで和卿を受け入れる。唐船があれば宋に行けるという話になり、実朝は和卿に唐船の建造を命じ、周囲の反対を押し切って渡宋を決意する。唐船の建造は順調に進んだが、船降し(進水)に失敗し、海に浮かぶことはなかった。実朝は義時を疑いながらも再度挑むことを胸に誓う。やがて公暁が京での修行を終え、鶴岡八幡宮寺の別当となるべく鎌倉へ帰ってくる。実朝は成長した甥の中に兄頼家の豪放な面影を見るのだった。一方、義時が官位昇進を望む実朝を諫めにやってくる。はたして義時は忠臣か、それとも北条の世を企む策士か、実朝は見極めようとする。そして八幡宮裏山の堂で千日の参篭に入っている公暁を訪ねる。

   * * *

「殿は傀儡子(クグツ)なるものをご存知にございますか」
 傀儡子は流浪の旅芸人で、男は狩がうまく木人形を操る芸をこなす。女は歌、舞の芸に秀で、時に男に身を売ることもある。諸国を巡るにあたっては国境、関所も何の障りもなく通ることができる。それは密かに帝より与えられた特権(モノ)らしい。手形があるわけでもなく、ただ傀儡子であることを示すだけでなんなく関を通ってゆくという。京へ寄ったおりに女は白拍子として帝や公家の席に侍る。その際、諸国の諸々の情報(シラセ)が口伝されるという。鎌倉、東国の武士が力を持っても、世には院の息のかかった者たちが潜み、武士とて易々とは手を出せない領域があるということだ。
「なるほど」
 公暁の話を聞いて実朝もようやく合点がいった。頼家が時政の手勢に伊豆修善寺で殺められたのを知ったのは、公家の娘である室の実家からの文によってだったが、遠く離れた京でなぜそのようなことがわかるのか不思議に思っていた。
「京では、二代鎌倉殿が執権に殺められたというのは知れ渡っております。みな帝の周辺から漏れ出た情報にございますが」
 公暁は、父の頼家が修善寺の療養先の風呂場で残虐な殺され方をしたのを知っていた。
「直に手を下した者が誰かも存じております」
 宙を睨みながら言う。膝の上で握る手の甲が筋張り、わずかに震えた。
 ――なに、そこまで知っておるのか?
 実朝は口には出さなかったが顔に出てしまった。
「ひとりは今、執権殿の郎党になっているようにございます」
 ――なんと、そのような近くに居たとは……。
 残虐な男が何食わぬ顔で……。ならば、すでに時政が没した今、公暁にとって仇といえるのはその男かもしれない。とはいえ公暁も今は出家の身、仇などという心持は捨て去らねばならない。実朝はそのあたりについてはそっとしておこうと思った。ところが……。
「名を次郎丸と言います」
 公暁の目つきが変わった。険しい、というより遠くの標的を捉え、冷たく見据えるような目だった。
「なに、次郎丸、とな?」
 つぶやきながら、その名には憶えがある、と思った。そして、闇の中で灯りをともしたかのように、ぼんやりと男の顔が思い浮かぶ。
 ――あ奴がそうであったか……。
 次郎丸という郎党と初めて対面したときの記憶がよみがえる。


「この男の相撲はなかなかにござるぞ」
 流鏑馬(ヤブサメ)のあとの宴で、義時が自身の郎党を侍らせ、実朝に謁見させたことがあった。
 坂東武者は常日ごろから武芸を磨いておかねばならない、というのが義時の持論で流鏑馬の会がよく行われた。実朝を含め、近ごろの鎌倉の武士が、京の公卿を真似て歌や音曲にうつつをぬかしているのを嘆いていたということもある。
 流鏑馬は馬に乗って駆けながら弓を弾き、的に当てるのを競う武芸だったが、義時の発案で弓馬だけでなく相撲や剣術も含めた武芸大会になっていた。
「この体で、あの巨漢を投げ飛ばしたのですからな」
 相撲で勝ち残った自身の郎党に目を向け、義時は満足げな笑顔を浮かべた。
「殿、一献授けてやってくだされ」
 実朝がうなずくと男は顔を伏せたままにじり寄ってくる。
「名は、何と申す」
 男は、顔を伏せたままわずかに頭を揺らす。一介の郎党が将軍に拝謁し、名乗るなどそうあることではない。緊張しているのだろう。
「殿の仰せじゃ」
 横から義時が声をかける。と、
「じ、次郎丸と申します」
 不器用に言いながらやや体を起こす。と、そのとき顔が少しだけ見えた。歳はおそらく実朝よりだいぶ上のようだ。緊張しているせいか目つきは鋭く、どこか陰があるように思えた。だが、体つきは巨漢を投げ飛ばすような剛腕には見えない。どちらかといえば華奢な男だった。
「その体でよう大男を投げ飛ばせるものだのう」
 次郎丸に興味がわいた。だが身を固くしたまま伏せている。
「相撲は力だけではござらぬ。相手の力をかわし、それを逆手にとって打ち負かすのでござる」
 義時が横から口を出す。
「実の戦場(イクサバ)では弓馬だけにはござらぬ。馬から落ちて最後は組み合わねばならぬことがあり申す」
 そんな時は相手を投げたり押し倒して地に組み伏せ、最後は脇差でとどめを刺す、という。
「ご覧なされ、背格好は殿とほとんど変わりませぬ。それでも、こ奴は実の戦では役に立つ者にございます」
 義時が目を細める。
 ――背格好は吾と変わらぬ、だと?
 何を言いたい。歌に興じて武芸に励まぬ吾への皮肉か?
 ――吾とて、まことは弓馬が嫌いではない。
 少々悔しかったが、武芸下手を演じているのを気づかれていない証、と胸の内を鎮めた。
 ――しかし、それにしても、背格好は……。
 実朝は、あらためて次郎丸の華奢な体を見た。
 ――身の丈といい肉付きといい……。
 言われてみればたしかに……。

 
 ――なるほど実の戦とはそういうことだったか……。
 伝え知った、頼家が殺められたときのようすを思い浮かべ、あのとき義時の言った言葉に、今ようやく得心した。
 ――忍び込み、不意を襲って人を殺めるような行為であっても、主君の命ならば、たとえ相手が誰であろうと忠誠を尽くした実の戦と言えぬこともない、か……。
 実朝も次郎丸という男のそんな素性を知らないまま、その後になって重宝に使ったことがあった。
 ひどい宿酔いで公務の宮寺参拝ができそうもなかったあのときのことが思い出される。
 もし神前でもどすようなことがあったら……。誰か代わりに詣でに行ってくれるものはおらぬものか……。自分と瓜二つの分身がいたなら……。そんな都合の良いことがあるわけない、と思ったあのとき……。義時が、あの次朗丸という男を連れてきた。顔つきは違うが、背格好は実朝と似ている。顔は白粉を塗ってしまえば……。
 ――あのとき、義時に初めて借りを作った……。
 過去(イニシエ)の記憶を辿っていると、
「殿、いかがなされました?」
 公暁が顔を覗きこんでくる。
「いや、なに、相州の郎党に、しかとそのような名の者がいたような気がしてな」
 実朝は言葉を濁した。と、公暁の目が険しくなる。そして、「やはりご存知でしたか」とうめくように言った。
 実朝は、直に手を下した者が誰かを知っている、と言ったときの公暁の顔を思い出す。実の父が残虐な殺され方をしたのを知ったら……。平然としていられるだろうか。時が経てば恨み心も消え失せるのだろうか。いや、僧となったからには修行の中でそのような思いはすでに凌いだのだろうか。実朝は聞いてみたかった。だが、僧の身であるからには怨恨を抱いているとは口にできまい。
「のう、そなたは今……」
 遠回しにでも探ってみたいと思ったときだった。
「失礼つかまつる! 駒若にございます」
 堂の戸の外から声がした。
「おう、入れ」
 公暁が戸口をふり向く。
「夕餉の用意ができました」
 戸が開き、顔が見えた。若い、というより、まだ烏帽子も被っていない。髷も結わず長い髪を後ろにまとめている若衆だった。
「これは客人にござりましたか」
 夕餉らしき器の載った盆を置いて平伏する。
「ただの客人ではない、高貴なお方ぞ」
 高貴な、と言われて実朝はひやりとした。化粧をしていないことをふと思い出す。駒若という若衆の肌が若い女子のように白く滑らかなのを見て、自身の痘痕面の醜さが苦々しく、顔を伏せたくなった。
「外におられたのはお付きの方でしたか……」
 侍従には話し声が聞こえぬくらい間を置いて控えているよう申しつけてあったが駒若が来たことで目を光らせているに違いない。外に向かって危ぶむことなしと下知した。
 夕餉は二人分しか用意されていない。実朝の分があろうはずもない。では、そろそろ、と帰るそぶりを見せた。と、もう少し話したい、と公暁が引き止める。もちろんそれを見越してのふるまいだった。
「唐船の話など聞かせていただけませぬか」
 表情を緩め、笑みを浮かべる。
「うむ、唐船か」
 実朝もとたんに気持がくだける。唐船といえば周りには小言をならべたてることはあっても興味を示す者などいなかった。
「そもそもの話からすれば長くなるぞ」
「かまいませぬ」
 公暁が笑みを浮かべれば駒若もうなずく。実朝ももう少し話をして公暁という男の心内を探ってみたかった。そして今ならそれができるような気がした。

「先だって亡くなられてしまったが、吾は寿福寺の栄西禅師の教えを受けての」
 宋に憧れ『大唐西域記』に没頭して玉門関より西方の世界を夢見たことを懐かしく思い出しながら話す。聞かれたから話すというより、しだいに楽しくなって自ら喋っていた。
「陳和卿という宋人が訪ねてきてな。これが大層な男で、船も造るが諸々のことをよう知っておってな」
 船が、はす向かいの風を受けながら前に進む理屈を、手のひらを竜骨にして示しながら何度も話したのだが、二人は首を傾げるばかり。和卿の整然とした解き明かしと違って実朝の話の中に何かが抜け落ちていたのかもしれない。
「では、この大地や海が蹴鞠のような玉になっている話をしよう」
 話すにつれ実朝は熱くなってゆく。
「瓜の上に蟻がおる」
「蟻、にございますか……」
 駒若が、わけが分からぬという顔をする。
「そうだ、そちや吾らが蟻ということだ」
「はあ」と小さな声で語尾下がりに応じる。
 なんで自分たちが蟻にならねばならぬのか、という顔だ。
「その蟻が這ってゆくとどうなる?」
 実朝は、また元の場所に戻ってくる、という応えを期待し、この大地が玉のようになっているという説明をしようとしたのだが、どうも話す順序を間違えたことに気づいた。
「では、遠い海の向こうに島があるとする……」
 そこへ船で向かえばまず見えてくるのは山の頂で、近づくにつれ岸辺が見えてくる。つまり海の上も平らではない、という話をしたところ、二人はそれについては、なんとなしに得心した顔をした。

 
「駒若、あれを持て」
 実朝の熱弁にも十のうち一つしかうなずかない二人に疲れ、語り口も鈍ってきたころ、それを見計らったかのように公暁が駒若に言った。親指と人差し指を口に持ってゆくしぐさをする。
「酒だ、酒」
「よ、よろしいのでございますか?」
 駒若がおそるおそる聞き、実朝のほうをちらりと見る。
「何? 酒だと?」
 僧が参篭する堂で酒とはどういうことか、と怪訝に思う。
「お叱りを頂戴するやもしれませぬが、夕餉には酒を嗜んでおります」
 いっこうに悪びれもせず、どこか朗らかな響きすらある。
「何?」
 実朝ですら二所詣に出る十日前には酒を断ち、水ごりで体を清めて出立するというのに……。
「ただ、僧侶は酒とは申しませぬ。般若湯(ハンニャトウ)というものをいただくのにございます」
「般若湯?」
「はい、仏法の知恵である般若を得るための薬湯にございます。これをいただきますと心の奥が天空のごとく広がり、差し障るものが消え失せ、今の殿のような難しいお話も解るようになるのでございます」
 実朝は酒、と聞いたときは、僧が参篭の身でありながら、と叱ろうかと思った。今もなにやら公暁に騙され、煙に巻かれているような気もしたが、これも方便というものか、と叱る気持も萎えてゆく。ひとつには公暁という男のあっけらかんとした豪放さにいつの間にか飲み込まれてしまったのかもしれない。 
 横目でちらりと不動明王像を見上げる。憤怒の形相を崩さないでいるものの雷は落ちてこない。やはり公暁の豪放さの前では不動明王の法力も通じないのかもしれない。


 実朝も酒は嫌いなほうでない。宿酔いするほど飲みすぎてしまうこともある。そんなときは栄西禅師が宋より持ち帰って栽培した茶の葉を煎じて飲み、宿酔いを和らげる。
 二人分の夕餉を三人でつついて肴にし、酒、ではなく、般若湯を酌み交わす。土器(カワラケ)についた味噌を舐めながら、昆布で煮たごぼう、大根汁……。
「なんと干し魚もか」
 小鰯を干して焼いたものを手で摘む。焦げた皮が香ばしい。僧が戒める魚までも……、だが、実朝はそれが嫌いではなかった。そのせいで般若湯もすすみ、叱る気力が萎えてゆく。不動明王の憤怒顔はすでに張子の虎と化していた。
「して、そちは今でも思っているのか。あの……武士になりたい、と……」
 喉の奥に痞えていたものがするりと出た。般若湯が心の壁を取り払う。そもそも今日ここへ来たのはそのあたりの探りを入れるためだったのだ。
 その瞬間(セツナ)、公暁の顔が固まる。
「そのようなことを私が……」
「申したぞ、ほれ、そちの着袴(チャッコ)の儀のときぞ。母上に向かって」
 ――はい、強い武士になりとうございます。
 あのときの凛とした声がよみがえる。
「そうでしたか……、であれば、それは今でも……」
 公暁の箸が止まる。目はどこか一点を見据える。
「そうか。やはり、な」
 頭をまるめ、僧の衣をまとい名のある師について仏法を修めても、人の心はそうたやすく変わるものではない。
「じつは京で修業していたころも、夜な夜な裏山で木刀を振っておりました。師匠の貞暁様に見つかってずいぶんとお叱りを受けましたが……」
「うむ。やはりな」
 実朝の箸も止まる。
「修行して、どんなに心を仏に向けようとしても、私の体の中には父、頼家の血が流れているように思います」
 公暁はどうしようもない想いを白状するように言った。
 ――心を変えようとしても体の血は入れ替えられぬ、か……。
 政子も義時も公暁が京での修行を終え、立派な僧侶となったのを見て安心していた。よもや二代将軍の嫡男であることを盾におかしな考えを起こすことはないと高を括っているふしがある。
「頭をまるめたときから、何か違う、と思うておりました」
「違う?」
「鏡に映った自身と心の中にある自身にございます」
 頭、それは、いつか元服して烏帽子を被るもの。直垂を着て帯刀する。武士の子であればいつかそんな姿になるときがくる。そう思っていた、という。
「剃髪した頭。墨染めの衣。街中で托鉢の僧を見かけることがあったが。よもや自分がそんな姿になろうとは……。これは自分ではない……」
 公暁は、どこか宙を見つめながらつぶやくように言った。
「京で回峰の行をしていたときのことにございます」
 百日の間、毎日ひたすら山の峰々を巡り、あらゆるものの中に仏性を見出して礼拝する行だという。満行するまでの間、どんなに疲労困憊しても休むことは許されない。休む、止めるときは自害しなければならない。

 
「気が朦朧としながら山道を歩いていたときのことにございます」
 汗みどろで目はかすみ、足を引きずるように歩いていたとき。痩せた尾根の荒れた道に出っ張っていた岩が目に入らず蹴躓いた。前のめりに倒れ、地べたに這いつくばった。顔面を地に打ちつけ、頬にざらりと砂がついた。どうやら口の中を切ったようで血の味がした。なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と思ったという。そのとき、ふと、木の根に蝉の躯が転がっているのが目に入った。腹を上に向けていたので躯と思ったが、ときどき翅(ハネ)を震わせている。まだ生きていた。もがき苦しんでいるように見えたが、しだいに翅の動きは鈍くなり、やがて動かなくなった。ようやく躯になったようだ。
「まるで、そのときの自分のようだと思いました」
 回峰行のときは白の装束をまとうことになっており、それは、いつどこで息絶えてもよいよう死装束でいるということだった。
 自分もこのまま……と思ったとき、幼きころの思い出がよみがえったという。
「殿は、幼き蝉が殻を破って親蝉になるのをご覧になられたことがおありか?」
 ぎょろりとした目を実朝に向けてくる。
「蝉殻が落ちているのは見たことがあるが……」
 幼き蝉の形をした茶色の殻が地べたに落ちていて、それが面白く、手にしたところを乳母に叱られた想い出が目に浮かんだ。
「そうでしたか、それではいちどご覧になるが宜しい」
 それを初めて見たときは、神々しいものを見たような気がして心が震えたという。
「蝉は幼い間、幾年も土の中で過ごすと申します」
 ころ合いが訪れると土から這い出て木に登る。
「あれは朝方のことでした。おそらく夜のうちに地の中からはい出したのでしょう。幼い蝉が木の枝にとりついているのを見つけました」

 
 殻の背がぱっくり割れ、中からまるで蝋細工のような蝉が現れる。それは濡れているように白く瑞々しい。翅はまだ小さく縮んでいるが、その翅の葉脈のような筋に翡翠色の液が染み渡ると、しだいに翅に張りが出て広がってゆく。すっかり見とれてしまい、ふと気がつくと半時ほど経っていて、いつのまにかよく目にする親蝉の形になっていたという。
「そやつは、翅を震わせたかと思うと、瞬きする間もなく朝もやの中に飛び去ってしまいました。あとに残された私は、何やら清々しい思いをしたのを覚えておりまする。が、回峰行の道で倒れ、蝉の躯を見たせつな、それを思い出し、はたと感じたにございます」
 遠い記憶を辿る目からもどり、実朝を見つめる。
「暗い土の中で幾年もの間過ごした蝉の子も、外に出で親蝉になって飛び回るのはひと月にも満たないと申します」
「ほう、ひと月とな。なんと短いものよのう」
「短な生を送ってのち、ただの躯となって土に還るのにございます。だからあのように狂おしく鳴くのにございましょう。短な生であればこそ精一杯生き、鳴き、飛びまわる」
 公暁は実朝の目を見るようでいて、それを通り越した遠くを見るような目をしていた。
「人の生とてそう長いものではございませぬ。定められた道を受け入れ、耐え忍んで生きるも生。定められた道を拒み、意がままに生きるも生。いずれを選ぶかは……」
 遠くを見ていた目が、もどってきたかのように実朝の顔を見すえる。
「私も、今は、あの殻を破って出た蝉のように生きたいと思うております」
 そう言い切った公暁を見ていた駒若の顔が強ばった。そこまで言ってはならぬ、という顔だ。おそらくこの若者は公暁の胸の内を知っているのだろう。兄として慕っている、というのを越えて心酔しているかに思われた。
「なるほど、の……」
 ――こやつは、このまま僧侶に甘んじていることはない。いつか武将に……、ということは、やはり……。
「その髪は還俗(ゲンゾク)のためか?」
 あえて笑みを浮かべる。
「いや、これはただ行に専念しすぎて……」
 伸びた髪をかき上げながら苦笑いする。
 ――どうやら図星のようだな。
 口にはせず、笑みを浮かべて返した。八幡宮の別当になった者がこのようなありさまであるのを知ったからには、本来ならば将軍として許すことはできない。しかし、なぜか胸の痞えが下り、清々しささえ覚えた。
「して……」
 公暁の顔から笑みが消える。
「殿は今のままでよろしいのでございますか」
 ぎょろりと大きな目が険しく見つめてきた。

<つづく> 次回より、いよいよ最終章!

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