5.著作のこと

【連載小説】俥曳き俊輔の逡巡(2)

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■前回のあらすじ
 俥夫の俊輔は、寿福寺の山門前で呼吸不全に苦しんでいた曽夫人を助け、人力車で自邸まで送る。夫人の家は鎌倉の旧別荘地にある大邸宅だった。洋館の庭に面したサンルームに招かれ、お茶でもてなされる。曽賀夫人、蓉子は後妻で未亡人。俊輔は、かつて大学で歴史学を学びながら陸上競技部に所属していた経歴を話す。そして箱根駅伝の選手を目指しながら挫折した記憶がよみがえったが……。

俥曳き俊輔の逡巡(2)

「へえ、史学科だったの」
 蓉子が紅茶のカップを静かに置いた。
 話の流れから、史学科で陸上競技部だったことまでは明かしてしまったものの、大学が城山学院だったことや、駅伝の選手を目指して夢破れたことまでは言わずにいた。そのことは、まだ気軽に話せるほど自分の中でも整理がついていない。
「ええ、西洋史を専攻しました」
「西洋史ね。でも今のお仕事だったら鎌倉の歴史にもお詳しくなるんじゃない」
「ええ、まあ、いちおう鎌倉幕府やお寺さんのことだけはひととおり」
 英語であれば外人客も案内できた。そこが親方にも重宝がられている。
「いろいろ教えてね。私も好きなの、鎌倉の歴史は」
 中世鎌倉をテーマにした文化講座や『吾妻鏡』を読む会などにも参加している、という。
「あれも、やっぱり古いものなんですか」
 広間の奥に暖炉があり、俊輔はそのうえに置かれた壺がさっきから気になっていた。華やかさに背を向け、ごくうすく摺った墨のような色に惹かれるものがあった。
「ああ、あの青磁ね。いちおう宋代のものらしいんだけど、本当はどうだか。私にはわからないわ。主人が骨董屋で見つけてきたものなの」
 わずかに灰色がかったうすい青緑色のそれに、まるで遠くの景色を眺めるような視線を送る。
「青磁ってシンプルなのに、ほんときれいですよね」
 偽りのないところだ。彫刻は西洋に優れたものが多いが、陶磁器の類になると東洋のほうが圧倒的に勝っている、と俊輔も思っていた。
「あなたもそう思う? 中国の後周の柴栄(サイエイ)という皇帝だったのよね、陶工に青磁を作らせたのは」
 そこまで言って蓉子ははっとしたように俊輔を見る。
「あらいやだ、歴史を本格的に勉強された方に向かって、私」
「いや、知りませんでした。ぼくは西洋史だったし」
「雨上がりの雲間から見えた青空のような色の器を持ち来たれ、て命じたんですって。どんな色を想い描いていたのかしらね」
 おそらく灰色の雲間から目の醒めるような紺碧の空が覗いているのを想ったのだろうという。
「でも、青磁ってそんな鮮やかな空色じゃないでしょ。もっとくすんだ、灰色がかったような水色よね。はじめからそういう色にしようとしたのかしら。それとも、ただ出来あがったものがそういう色だった、ということかしら」
 焼き物で青い色を出すのはとても難しいことらしい。釉薬の中の鉄分が酸化してその独特の色を出すが、酸素が多いと赤茶けた色になってしまうので、酸素の少ない状態の高温で焼いたときにだけ、そのわずかな加減で灰色がかった青や緑、ときには翡翠のような色になる、という話をどこかで聞いたことがあった。
「ねえ、ちょっと来てみて」
 蓉子が立ちあがって暖炉のほうへ行く。俊輔も誘われるままについてゆく。アール・デコ調の照明を上に見ながら広間を横切る。暖炉は大理石のようで、炉の口は細やかな模様の鉄格子(グリル)で塞がれていた。

「これ、何だかわかる?」
 陶器の破片と思われるものが磨かれた大理石のうえに無造作に置かれている。欠けた縁の角が摩耗して丸くなり、釉薬もほとんど擦れ落ちてしまっているのでその素性はわからない。だが、
「磁器のようですね」
 破片の肉厚からして土器や土師器ではないだろう、と思った。
「そう。これ青磁の欠片なの。和賀江島はご存知?」
 材木座海岸に接するようにあるその岩礁のような小島は俊輔も知っていた。玉石を積み上げて築いた中世の港湾であったが、今は波や潮に洗われて崩れてしまったのか、知らない人であればただの浅瀬にしか見えないだろう。
「ええ、ときどきお客さん連れて行くこともありますよ」
 鎌倉時代に築かれた港をイメージして行った観光客には殺風景なただの浅瀬にしか見えず、がっかりされることが多かった。
「そう。これ、そこで拾ったものなの。宋の時代の中国から船に乗ってはるばる来たものだと思うとロマンチックじゃない。でも、みんなそう思って持っていってしまうものだから、最近はあまり見つからないのよね」
 蓉子は破片のひとつを手にとってじっと見つめた。八百年前の中国からはるばる海を渡ってくる情景がそこに浮かんでいるのだろうか。
「そうだわ、これからは、あなたに連れていってもらおうかしら。いつもはタクシーだったから」
 そう言って微笑む。
 俊輔はその黒目がちのまなざしで見つめられてどきりとした。と同時に、乳のように白い肌に、濃い桜色のくちびるが蠢くのを見ているとどろりと澱んだ情欲が湧きあがってくる。その浅ましい胸の内を悟られないよう、そっと目を逸らせた。
「ああ、いつもタクシーでしたか」
 一瞬ぼうっとして蓉子の言葉を聞きのがしたと思ったが、これからはあなたに……と言われたのが耳によみがえってはっと我に返り、ウェストポーチを取りにサンルームへ戻った。
「では今後とも爽風亭を宜しくお願いいたします」
 両手で名刺をさし出し、深く頭を下げる。
 名刺には爽風亭の住所と電話番号を記してあった。

            *

 吾妻鏡貞永元年(1232年)七月十二日の条。
『今日、勧進聖人往阿弥陀仏の申請に就いて、舟船着岸の煩い無からんが為、和賀江嶋を築くべきの由と。武州殊に御歓喜、合力せしめ給う。諸人また助成すと』
 鎌倉中央図書館には鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の現代語訳や解説本がいくつも所蔵されている。俊輔は漢語原文を読み下した『全訳吾妻鏡』を閲覧室で読んでいた。
 武州とは鎌倉幕府第三代執権、北条泰時のことだ。吾妻鏡特有の人物表記に慣れれば内容もおぼろげに読み取れる。
 鎌倉の海は遠浅なので外洋を渡ってくる中国の大型船は底がつかえて岸に近づけない。そこで阿弥陀仏なる僧侶が執権に港湾の構築を進言した、ということのようだ。
 俊輔の知るかぎりでは『吾妻鏡』の中で和賀江島について記述されているのはこの条だけだ。

 図書館には休暇の日だけでなく、仕事の合間にも休憩を兼ねてときどき寄ることがある。以前はほんの軽い気持で司法試験や税理士資格にトライしてみようか、などと思っていた時期もあり、ここで独学を試みたが、もともとそれほど真剣ではなかったので、近ごろはただ興味のわいた本を書架から持ち出して読むようになっていた。たいていは歴史、特に西洋史関係の本を手にすることが多い。
 『吾妻鏡』は、まだ最初から最後までを読みとおしたことはないが、観光ガイドの参考にするため拾い読みすることはしばしばある。鎌倉幕府の正史とはいっても、いや、そうであるが故に為政者である北条氏に都合よく書かれた史料であることは通説になっている。だが、貞永元年のころに、あの和賀江島が築かれたことについては、ほぼ間違いないだろう。ということは現存する港湾施設としては日本で最も古いものということになる。
 俊輔は、材木座の海に潮がひいたときにだけ現れる浅瀬を思い浮かべた。そこから青磁の破片が見つかるという。かつてはどんな姿をして、あたりはどんなに賑わっていたのだろう。頭の中に中世鎌倉の材木座あたりを描いてみる。
 時を遡り、そこへ身を置く。霞に包まれた中から、おぼろげに海辺の風景が浮かびはじめる。が、そのとき、ポケットの中で携帯が細かく震えた。マナーモードではあっても静かな閲覧室ではブザーのような音が漏れ聞こえる。親方からかもしれない。急な客が来て呼び出されることはときどきあった。とりわけ外人観光客が来た時はまずたいてい俊輔が駆り出される。閲覧室を出て廊下で携帯を開いた。が、それは電話ではなくメールの着信だった。
《こんにちわ。どうしてらっしゃいますか? 返信いただけないのはわかっているのですが……》
 小さな画面に並んだ文字を見たとたん、俊輔は胸の中に潜んでいた小さなしこりが疼くのを覚えた。だが、それに言葉を返すことなく、静かに携帯を閉じた。

          *

 厚い雲が空を覆い、今にも雨が降ってきそうな匂いがする。
「ちょうど満潮ね、今」
 俥の座席から沖を眺めていた蓉子がぽつりと言った。今日は濃いグレイのチュニックを着ている。緋色の膝かけから黒いタイツの脚が見え、俊輔の胸中も渚の小波のようにゆらゆらとうねる。

 浜からいちだん高くなった崖の上。〈国指定史跡 和賀江島〉と彫られた大きな石碑の傍に、梶棒を沖に向けて俥を停めている。
「そうですね。もう2、3時間しないと島は出てこないでしょうね」
 俊輔は俥の横に立ち、やはり沖を見つめたまま言った。潮風に混じって蓉子の香水が薫り、胸がざわめく。
「見えてなくてもいいの。こうやって眺めているだけで、だんだん目に浮かんでくるわ」
 潮に崩され、変わり果てた瓦礫の浅瀬をさらけ出しているよりも、その姿を海に沈めて隠しているときのほうが、かえって古(イニシエ)の風景を目に浮かべることができるという。
 左手には逗子マリーナの椰子並木と南欧風の赤い屋根が見えている。ちょうど和賀江島が沈んでいると思われるあたりをウィンド・サーフィンがゆっくりと通り過ぎて行く。そこにあるのは湘南の海。だが、蓉子の目には緑の木々に覆われた三浦半島を背に、二本の帆柱を立てた大きな宋船が浮かんでいるという。俊輔もそんな風景を目に浮かべてみる。船の舳先では竜頭が前方を睨み、朱色に塗られた船べりが異国の風情を醸している。

『吾妻鏡』には港湾構築の経緯(イキサツ)しか記されていない。だから港のようすがどうであったか、それは想像するしかない。
 玉石で築いた桟橋が沖に向かって延びている。宋船がそこへ横づけされている。人の姿も見えてくる。中国の僧侶と思われる出で立ちの者がいる。時の権力者である北条氏に招かれ、建長寺や円覚寺といった五山の寺で禅を説くためにやってきたのだろうか。であれば桟橋では中国語も飛び交っていたはずだ。今でいえば国際空港のように異国の空気が流れ込んでくる場所であったかもしれない。
 蟻のように行列をつくって船から荷を降ろす人足たちの姿も見える。柳行李を肩に担いでいる者。大きな甕を二人がかりで運ぶ姿。中に入っているのは中国の酒だろうか。それとも茶か。壺を抱えているもの。それは青磁だろうか。桟橋は玉石だ。でこぼこで足場はけっして良くない。躓き、よろけて壺を落としてしまった者もいたであろう。翡翠のような、あるいはくすんだ水色をした青磁の壺が粉々に砕けて飛び散る。その欠片は玉石の隙間に挟まってしまったかもしれない。落とした人足は頭領から激しい叱責を受けたに違いない。
「船べりから直接海の中に落ちてしまったら、割れないで沈んだのもあったかもしれないわね」
 そう思わない? という目で蓉子が俊輔を見る。
「そうですね。きっとそんなこともあったでしょうね」
 応じながら蓉子の視線を顔の横に感じ、そこがぽっと熱くなる。
「だったら、島の上じゃなくて周りの海を探せばお宝があるかもしれないわね」
「あったらすごいですね」
 この和賀江島で見つかりながら、密かにさまざまな人の手を経て骨董屋の店先に辿りついたり、博物館に陳列されているものもあるかもしれない。
「想像してると、なんだかわくわくしてくるわね」
「ええ」
 わくわくもするが、そのいっぽうで俊輔は蓉子に見つめられてどろどろと熱いものが胸に湧きあがる。
「あの雲の上には空があるのよね」
 蓉子が上を仰いで唐突につぶやいた。
「え? ああ、そうですね」
 わくわく、どろどろとした内向きの意識が、とたんに広大な天空へ振られてとまどい、その眩しさに恥ずかしくなる。
「どんな色をしてるのかしら。雨上がりの雲間から見える青空って」
 蓉子は少し寂しそうに、それでいて何かに想いを馳せるようにつぶやいた。
 ああ、あの後周の皇帝、柴栄のことを言ってるのか、と俊輔は思う。時を遡り、宋が始まるころの中国へ想いを馳せる。皇帝の命を受けた陶工はどんな想いで窯を開けたのだろう。容易に出せる色ではない。鉄の赤錆色をした器ばかり出てきたかもしれない。数限りない失敗の中から、ようやく透きとおるような青みをおびた色の器が窯から出てきたのだろう。それは雨上がりの雲間に垣間見えた空の色になっていただろうか。
 下の浜辺から笑い声が聞こえてきた。姿は見えないが、どうやら崖下でバーベキューパーティーでもやっているようだ。酒に酔った大声も聞こえてくる。と、男がひとり浜辺に現れ、ふらふらと渚の手前まで歩いて行く。やにわに手に持っていた缶を放るとそれをダイレクトに蹴りあげた。缶は放物線を描いて遠くまで飛んでゆき、小さな飛沫をあげて海に落ちた。そのジャストミートのパントキックに姿の見えない崖下の集団から歓声があがった。
「ひどい。なんてこと……」
 ふるえるような小声で蓉子がつぶやくのが聞こえた。
 見ると、さっきまでの笑顔が消え、顔をこわばらせている。俥の肘掛を握った手がわなわなと震えている。ただならぬ感情の昂りが顔に浮かんでいる。
「まったく、どうしようもない連中ですね」
 たしかに俊輔もそう思った。だが、そうは言ったものの、そこまで激しく感情的になるようなことだろうか、と蓉子の顔を見て妙な気がした。

つづく
次回(3)はコチラ

<ご参考>
■和賀江島に関する記事(ドローンによる空撮動画あり)

【ご紹介】森園知生の著作一覧

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