5.著作のこと

蓮池(1)ー 幼なじみ ー

 坂本浩一は、ベッドに半身を起こし、手のひらの白い錠剤を見つめた。
 これを飲めば、また吐き気をもよおすだろう。薬は病気を治すためにあるはずなのに、と憂鬱になる。
 薬には悪性の細胞を抑えるために正常な細胞まで痛めつけてしまうものもあるという。きっとこれはそういう類の薬に違いない。

 ときどき回診に来る医者もはっきりしたことを言わない。手術のことを口にしないのは、おそらくその段階を過ぎているからだろう。
 同室の患者たちと話をすることもない。みな何かを悟ったように静かに自身と向き合っていた。ここはそういうところなのだ。
 手鏡をとり、楕円の中に写った自分の顔と向き合う。ずいぶん白髪が増えたな、と思う。頬骨の下がこけ、伸びかけた髭にも白いものが混じる。落ちくぼんだ目だけがぎろりと自身を見つめている。もともと痩せているほうではある。だが、まだ五十を少し過ぎたばかりだというのに、これが俺の顔か、と浩一は愕然とした。

 浩一は電子部品メーカーに課長として勤めていたが、健康を理由に去年から休職していた。
 休職に入るとき、同僚や部下たちの浩一にたいする態度は、今思えばどこか不自然だった。元気になって職場復帰するのを待っています、という言葉はどこか空ろで、目を合わせずに俯いている者もいた。あのとき、みなすでに何かを察していたのかもしれない。いずれそのまま退職することになろう、ということも。

 手鏡を置き、革の小銭入れをとる。中に入っていたのは黒いドングリのような種だ。手に取って、じっと眺める。愛おしくもあり、疎ましくもある。ずっと長い間持ち続けていた。古くなった小銭入れを新しいものに替えるときは必ずそれも入れ換えていた。そんなとき、いっそ捨ててしまおう、と何度思ったことか。だが捨てられなかった。うしろめたい気持ちを抱えたまま、新しい小銭入れにそれを入れていた。
 それは捨てがたい想い出であると同時に、妻への裏切りでもあった。みすぼらしい自身の顔を目の当たりにしたことで、にわかに自己嫌悪の思いが湧きあがった。黒いドングリのようなそれを強く握りしめる。訣別しようと心を決めたとたん手が震えた。
 窓は開いている。ひきずっていたものを振り切るように、握っていたそれを放り投げた。黒い粒が白い雲に向かって一瞬停止したかに見え、次の瞬間すっと窓枠の下に消えた。
 捨てた。やっと捨てられた。やってしまえば一瞬のことだ。自身を、自身の人生を清算するときがきた、と浩一は思った。

 開け放たれた窓から空が見える。その下に松林が広がる。窓から見える風景はそれだけだった。松林の向こうには湘南の海がある。だが松に隠れて見えない。ときおり陽の光が強いときにだけ、松林と空の境目に水平線の輝きが溢れてくることがある。そんなときに、ふとそこに海があるのを思い出すくらいだった。
 浩一の部屋は建物の二階にあり、窓の下には玄関口から裏の駐車場へつながる通路がある。だが浩一は窓の下を見ることはなかった。人や車より、空だけを眺めていたかった。
 新聞や雑誌を読むこともなくなった。おそらく戻ることのない社会を、窓の内から覗き見るようなことはしたくなかった。
 昔はそれほど面白いと思わなかった異国の古典が心を鎮めてくれた。革命前のロシア。まだ英国が大帝國だったころのロンドン。時代も場所も遠く離れた世界に身を置くことで、現実の今にいることを忘れようとした。
「看護婦さん」
 浩一が計り終えた体温計を渡そうとすると、
「坂本さん、私は看護婦じゃありませんよ」
「ああ、そうだったね、今は看護さんと言わなければいけないんだったね。ごめん、ごめん」
 看護婦と呼ばれた女性は、またいつものこと、とあきらめたような顔で体温計を受けとり、その目盛に目を落とした。
「で、今日は何曜日だったかな」
 新聞もテレビも見ない浩一の会話はそうして始まることが多い。
「日曜日ですよ」
「ああ、じゃあ家内が来るかもしれないな」
「先週も日曜日にいらしてましたよね」
 小首を傾げ、子供をあやすような笑みを浮かべて浩一を見る。
「忙しい女でね。平日は来れないんだ。出版社で編集をやってるんだが、一昨年(おととし)だったかな、編集長になってからは昼も夜もないありさまだ」
 ふっとため息をついて窓の外に目を向けた。
「まあ、編集長なんて大変なお仕事ですよね」
「ああ、彼女は仕事と結婚したようなものでね。ぼくはつけ足しみたいなものさ」
 空の遠くを見るような目をした。
「あれは、たしか結婚記念日だったかな……」
 まだ結婚したての若いころだった、と浩一はそのころを想った。
 学生下宿のように小さなアパートだった。小さな流し台とガスコンロはあったがトイレは共同、風呂は近所の銭湯に通う生活だった。
 浩一は先に帰って洋子を待っていた。駅前の酒屋で安いワインを買った。ささやかに記念日を祝おう。そして少し働きすぎではないかと思う洋子をねぎらうつもりだった。
「ところがあいつ、ヒジキの煮ものなんか買ってきてね」
 洋子はスーパーで魚の照り焼きとヒジキの煮ものを買って帰った。その日が結婚記念日だったことは忘れていたようだ。
「赤ワインにヒジキの煮ものだよ、笑っちゃうだろ」
 そのときのようすが浩一の目に浮かぶ。自分で言って苦笑した。
「そういう女なんだ」
 浩一がワインを買ってきたことにすら批判めいたことを口にした。
「だいたい水爆実験やってる国のものなんて、私だったら絶対に買わないわ。うちの雑誌でも不買運動を応援してるし」
 そう言ったものの、ラベルを見て国産とわかり、飲むことは拒否しなかった。二人して魚の照り焼きとヒジキを食べながら赤ワインを飲んだ。ワインの味が渋く感じた。
「職業柄、社会や政治には批判的でね、ぼくなんか日和見主義者って言われていたよ」
 口に小さな笑みを浮かべながら、胸の内は笑えなかった。
「ヒヨリミ主義、ですか?」
 慣れない言葉を言い難そうに口でなぞる。
「ああ、あなたは日和(ひよ)った、てよく言われたよ」

 浩一が仕事のつきあいで飲んで帰り、洋子もフリーのライター達と飲んで帰った夜のことだった。
 四畳半の畳に二人して体育座りし、肩をならべて壁にもたれる。
 浩一はすでに煙草をやめていたが、洋子はハイライトの青いパッケージを指ではじき、一本ひき抜いた。赤い百円ライターで火を点ける。浩一に煙がかからないよう顔を背けて細く吐き出す。
 中学のころから髪は肩より伸ばさないのが主義であるかのような洋子。その髪が浩一の頬にふれてくすぐったい。決して仲が悪かったわけではない。だが、洋子は浩一に厳しかった。ジャーナリズム指向の中堅出版社に入ったころ、ロッキード事件が世の中を騒がせていた。世間は〈首相の罪〉に躍起になっていた。
「もちろん政治家の責任は免れないわ。でも、事件の本質は資本主義社会の必然として企業が腐敗したからよ」
 事件でロッキード社が工作に使った資金は三十億円と云われていた。そのうち首相への賄賂は五億円。とすると他はいったいどこへ流れたのか、それを追う連載記事を担当していた。
「企業にお勤めのあなたには申し訳ないけど」
 皮肉のこもった言い方だった。
「企業、っておっしゃいますけどね、ぼくだって一労働者だよ」
「搾取のおこぼれにあずかっている人が労働者?」
「搾取? そういう言い方ってないだろ」
 工場のブルーカラーだけが価値を生み出してるわけではない。企画、営業、さらには社長ですら価値を生む役割を担っているのだ、といつになく強気で言い返し、
「ホワイトカラーだって立派に生産的な労働者さ」
 目のまえに漂う煙をわざとらしく手で払いながら言うと、洋子が浩一を睨みつけた。
 こんな会話をするのも、二人は同じ高校の同級生で、当時高校にまで波及していた全共闘運動に関わっていたからだ。大学は別になり、洋子はジャーナリズム研究会に入った。
「街頭闘争や暴力革命じゃ世の中は変わらないわ」
 高校でやっていた活動を少しだけ反省するような言い方だった。首相の金脈と人脈を詳細にレポートしたジャーナリストの雑誌記事に影響を受け、その道を目指すと言いだした。
「社会を変革するのはジャーナリズムと教育よ」
 洋子がそんな考えを持っていたから、ということもあっただろう。大学へ入ってすぐのころまで、浩一は教師を目指していた。
 高校のときは「社会の支配階級を養成する大学など行かない。ぼくは労働者となって運動を続けて行くんだ」と豪語していたにもかかわらず、いざ卒業が近づくと周囲がみな進学を目指す中、ひとりだけ就職の道を選択するほど強い意志はなかった。
 教師になろう。教師になってもういちど学校改革に取り組むのだ。教師になるには大学で教員免許を取らねばならない。だから大学へ……。
 それは大学へ行く都合の良い理由をこじつけたにすぎなかった。あとになってみればそういうことになる。
 進学の理由を繕うのに手間取って結局一年浪人し、洋子に遅れて別の大学へ入った。受験勉強の間は教師になるという崇高な目標に支えられていたが、いざ大学へ入ると紛争はすっかり収まっていて、春のキャンパスには温(ぬる)い空気が漂っていた。やがて目標意識は薄れ、怠惰な生活を送るようになった。パチンコ、麻雀、コンパ。その資金を稼ぐためのアルバイト。やがて教職課程の授業に出ることもなくなり、教職の道を自ら閉ざした。

 日和見主義。広辞苑によれば『形勢をうかがって、自分の都合のよいほうにつこうと二股をかけること』
「そう言われてもしかたないんだ、ぼくは」
 ベッドの上で浩一は自嘲の笑みを浮かべ、胸の中でうなずいていた。
「へえ、坂本さんて、軟弱な人だったんだ」
 ベッドからずり落ちた掛け布団を整えながら笑う。
「ああ、どうしようもない駄目男さ」
 それに比べて洋子は、と浩一は窓の外を見、またあのころを想った。

「洋子はえらいよな」
 壁にもたれたまま、肩を並べている洋子にしみじみと言った。情けない男が崇高な女を見つめた。だが尊敬するよ、という言葉は口にしなかった。かわりに、
「なんでこんな日和見で軟弱な男といっしょになったの?」
 酔いにまかせて、たしか浩一はそう聞いたはずだ。
「なんでかしらね?」
 洋子は空ろな目で宙を見つめ、煙草の煙を細く長く吹きだした。
「もしかして、同情?」
 否定してくれるかもしれないと思いながら聞いた。なのに、
「同情? そうかもね。うん、きっとそうなんだと思う」
 そう言って浩一の肩に頭をもたせかけた。洋子の髪の匂いがした。
 かたちの上では夫婦。しかしそういう気がしない、と浩一は思った。もともと自分たちは戦友のようなものだったのだ。一人が負傷した。浩一の方だ。軟弱だったから、ただ挫折したにすぎない。それでもそんな戦友を見捨てなかった。ただ弱かったために傷を負った。そんな者にも肩を貸し、ともに歩む。洋子はそんな女だ。
 今、自分の肩にもたれかかっている洋子を感じながら、じつは自分が彼女によりかかっているのだ、と浩一は思う。このままでいいのだろうか、とも思う。情けない。それだけではない。うしろめたいことがあった。

「へえ、しっかりした方なんですね」
 もう用は済んだのに浩一の話につきあってくれていた。
「ああ、しっかり、なんてもんじゃないよ。ぼくは彼女に頭があがらないんだ」
 頭があがらない、というのとは少し違う。うしろめたいのだ。口には出さず、胸の奥で懺悔した。
「ああ、すみませんね看護師さん。こんな愚痴話聞かせてしまって」
 そう言って、ありがとう、という笑顔を浮かべると彼女はやっと浩一のベッドを離れた。

 また静かになった。浩一は窓の外を見た。真綿のような雲が松林の上に浮かび、陽に照らされて銀白色に光っていた。
 雲を見ていながらその向こうにある空を見透かし、そこに浮かぶ面影を見つめていた。
 いつの間にか初江のことを考えていた。さっき訣別したはずなのに。想い出の標(しるし)を捨てても想い出は捨て去ることができないのかもしれない。
 初江とは、洋子に黙って会っていた。長いこと裏切っていたことになる。じつに罪深いことだ。そう、今思えば……。

 事の始まりは駅の沿線情報掲示板に貼られたポスターだった。カルチャースクールが催す絵画展のポスターに出展者の名が出ていて、その中に二宮初江の名を見つけた。同姓同名はありうる。しかし、もしや、いや、そうかもしれない、と思った。
 開催期間初日の日曜日に市民会館へ行った。受付に来場者名簿が置かれていて住所と氏名を記入するようになっていた。少し迷い、名前だけ書いて住所を書くのはやめた。もし思ったとおりだとしたら、もしかしたら彼女は連絡してくるかもしれない。そうなって困ることがあるのか? いったい何が困るというのだ? 困るとすれば自分に余計な下心があるからだろう。そんなもやもやを抱えながら展示室に入った。
 額に納められた油絵が壁に並ぶ。はじからひとつひとつ見て歩いた。静物画、自画像、風景画。テーマも作風も不揃いな絵が並ぶ。絵画にそれほど関心があったわけではない。絵のほうはさらりと見、その下にあるプレートを注意深く見て歩いた。
 通路を曲がったところで、ふと一枚の絵が目にとまった。池の風景が描かれた絵だった。蓮が池いちめんを覆い、濃いローズピンクの花が咲いている。目が吸い寄せられていく。雲間から、いや雲は描かれていないものの、おそらく雲の隙間から漏れ出たような陽に照らされ、池全体が淡い光りに包まれている。

 蓮池だ。
 見た瞬間、胸の奥に眠っていた記憶が目覚め、絵と重なった。
 これはきっと、と思いながら下のプレートを見た。
 題『蓮池』。そして二宮初江の名があった。
 同姓同名のありうる名でありながら、初江に間違いないと思った。あの蓮池の面影が、浩一の記憶の中の風景そのままに描かれていたからだ。そして描き手の視点と浩一が蓮池を思い浮かべるときの視点も一致していた。おそらく同じ場所から見た景色を描いたはずだ。
 絵のことはよくわからないが、心の中にある風景と重なったとたんに感じた心地よさ。それは理由なく胸を揺さぶる音楽に出会ったときと似ていた。
 しばらく絵の全景に見とれながら、記憶の中にある風景と重ね、懐かしくもちくりと胸の痛むような想い出に浸った。そして細部に目をやる。と、手前の大きく描かれた蓮の葉にトンボが一匹とまっているのに気づいた。おそらくギンヤンマと思われるそれが、いつかあった瞬間と重なって心が躍った。
 ふと背中に人の気配を感じた。
 他の来場者の邪魔になったか、と立ち位置をずらしながらゆっくりとふり返った。女性がひとり浩一のほうを向いて立っている。手を前に合わせてもじもじしているような姿に見覚えがあった。初江だ。小学生のころはこけしちゃん、中学のときは埴輪ちゃんとみんなに呼ばれていた。遠くを見つめるような柔らかいまなざし。あのときの目をしたまま、少しだけ大人になった女が微笑んでいた。
「やっぱり、浩一くんだったんだ」
 浩一くんと呼ばれたのはじつに久しぶりだ。そんな呼び方をするのは初江しかいない。
「初江、ちゃん?」
 つい、小学生のころまでの呼び方をしていた。中学になってからは初江と呼び捨てていたが、まさかいきなりそんなふうに言う勇気はなかった。
「受付で名簿見て、もしかしたら、て思ったんだけど、やっぱり」
 そう言って埴輪のような目をして微笑む。そのとたん浩一の胸の中に温かいものが流れてきた。

 市民会館の向かいにある喫茶店に入った。アンティークの置物や家具がコーヒーの香りと相まって落ち着いた雰囲気を醸しながら、カレーやスパゲティー・ナポリタンの雑然とした匂いも割り込んでくる店だった。
 お互いの近況を話しあった。初江は短大を出たあと、今は総合商社に勤めているという。大卒男子で入社するにはハードルの高い名の通った会社だ。浩一のほうは、どんなものを作っている会社なのか説明しなければならなかった。小さな引け目が胸の中で疼いた。
「いま、カルチャースクールで油絵やってるの」
 中学、高校と美術部にいた初江は、短大のときしばらくやめていたものの、就職してから無性に絵が描きたくなったのだという。
「あの蓮池、憶えてるでしょ? あの面影を留めておきたかったの」
 幼いころ、初江は浩一の家の近所に住んでいた。そして二人が幼稚園や小学校に通う道の途中にその蓮池があった。
 かつては湿地帯だったところに別荘や住宅が建ち並ぶようになった地域の名残なのだろう。辺りには蓮の群生する沼地が点在していた。だが近ごろは宅地造成がすすみ、そのうちのいくつかはすでに埋め立てられていた。
「あそこもそのうち埋められてしまうかもしれない、という噂があるの」
 カルガモなどの水鳥やザリガニ、ときには青いカワセミが素早く飛び回ることもある。付近の子供たちにとっては自然に囲まれた貴重な遊び場だ。とりわけ浩一と初江にとっては想い出深い場所だった。
「あの景色を描いておくというより、私の中にある風景を描きとめておきたかったの」
 氷が溶けるように、消えてなくなってしまわないうちに、と。
 どちらかといえばおとなしい少女だった。じっと考え、ひと言ひと言とつとつと話す。だから何人かといっしょにいると、次の言葉を探しているうちに他の子に口を挟まれて話すタイミングを逸してしまう。それで無口で内気な子と思われる。そんな女の子だった。
 今も言葉は多くない。それでも絵の話になると胸の内の強い想いが溢れてくるようだ。浩一の胸にもそれが響いた。きっと記憶の多くが共有されているせいだろう。絵を見た瞬間もそれを感じた。
「トンボ、いたよね、あそこ」
 池の水辺をトンボが低空飛行していた。蓮の葉にとまって休んでいた。その光景が初江の絵と重なった。
「いろんなのがいたわよね、あそこ。ザリガニとかヤゴとか……」
 二匹のトンボが重なり、卵を生み、それが池の中で孵ってヤゴになる。水中を泳ぎまわっていた昆虫がやがて蓮の茎を伝って水から這い出る。ゆっくりと変身、つまり羽化してトンボになる。小宇宙のような池で、さまざまな命が循環していた。
 少年のころ、浩一はトンボの羽化をじっと見ていたことがある。それが飛び去ったあと、蓮の茎にセルロイドで作った虫のような抜け殻が残っていた。コーヒーの黒い水面をじっと見つめたまま、その乾いた虫の殻を想った。
 初江がコーヒーカップを置き、その手を左の手首にのせた。幼いころから変わらない仕草だ。初江の手首には色は薄いもののコップの底くらいの痣がある。それを気にしてか、いつもそうして右の掌で左手首を覆うような仕草が癖になっていた。それが、どこかもじもじしているように見え、おとなしい初江をさらに内気な印象にしていた。
「今、洋子といっしょにいるんですってね」
 うつむいたまま、浩一の顔を見ないでぽつりと言った。
 知っていたのだ、初江は。さっきから、いつそのことを言おうかと悩ましく思っていたのを初江のほうから切り出してくれた。胸が痛みながらも少しだけ気が楽になった。
 浩一はうなずくかわりに、苦い笑みを薄く浮かべた。
「高校の噂、聞いてたから」
 初江は女子高だった。浩一と洋子が同じ県立高校へ進み、全共闘運動に関わっていたことは中学の同級生仲間をとおして聞いていたという。おそらく二人がつきあっている、という形で伝わっていたに違いない。
「私の知らない世界に行っちゃった、と思った」
 ぽつりと小さくつぶやいた。
 私立の女子高と共学の県立という違い以上のものを感じていたという。それは浩一も同じだった。いろいろな意味で、だ。
「洋子は強くてしっかりした子だから」
 とうてい届かないものを、ため息をついて仰ぎ見るような言い方だった。
 初江が言いたいことは浩一にもわかった。たしかにそのとおりだ。自分はそのしっかりに支えられているようなものだ。
「強くなれない人間だっているさ」
 浩一自身のことを吐露したつもりだった。なのに、
「強くなろうなんて思ったことないわ。そんなことできないもの」
「そうじゃなくて……」、言いかけて言葉を探す。「それでもいいんじゃないかな、て思ったのさ」
 初江はたしかに強い子ではない。弱い、かもしれない。だが、風に煽られてもしなやかに揺れる草花のようなところがあって、ぽっきり折れてしまうこともない子だ。カンバスにひとり向き合う初江の姿が浩一の目に浮かぶ。芸術家としての成功を目指したわけではないだろう。競うこともなく、自身の道をゆっくり踏みしめて歩いてきたに違いない。
 それに比べて自分は……。情けない自分を嘲るような顔になって初江から目をそらした。強がり、闘うポーズだけ見せておきながら、いざ壁にぶち当たったとたん闘わずして逃げてきた。挫折、といえば少しは格好もつくが、じつはそこにすら至っていないのだ。
「俺なんか弱い、っていうか、脆い人間だよ」
 自身の弱さを人に曝したくはない。ずっとそうだった。なのに初江の前ではそれができた。
「脆い? 浩一くんが?」
 さも意外だという顔をするのが浩一にとっては面映ゆかった。
 弱い者どうしが虚勢をはることなく、あるがままの姿を見せあい、慰め合っていた。
 時間がゆっくりと流れていた。せき立てられることなく、誰かに攻められることもない。背のびする必要もない、のびやかで安らかな時間だった。言葉のキャッチボールも山なりの緩やかなボールが行き来していた。言葉を受け、噛みしめ、考えて返す。その間は、じっとおたが相手の言葉を待っていた。
 浩一にとってはじつに心地よい時間だった。おそらく初江にとっても……。
 洋子は強い。一人でも生きてゆける女だ。ただ成り行きで浩一を見捨てられなかっただけのこと。
 このとき浩一は思った。弱い者は弱い者どうし傷を舐め合って生きても許されるのではないか。たとえ、それが不義理なことであっても、と。

           *

 油絵の具の匂いが少しだけした。隣室が初江の絵を描く部屋になっているせいだろう。煙草の匂いがしないのは新鮮だった。
 ダイニング・キッチンに湯気が漂う。
「その土鍋、今日買って来たの。スーパーでちょうど安売りしてたから」
 初江がキッチンで背中を向けたまま言った。まるでいつもそうしているように。
 カセットガスコンロの土鍋から湯気が勢いよく吹きだしている。今にも吹きこぼれそうになっているのを見て、浩一は火を弱めた。

「今まで、小さいのしかなかったから。でも、それ三、四人用なんですって。二人用ってなかなかないものね」
 切った野菜を皿に盛り、初江がふり向いた。
「紅葉おろしって、どうやって作るか知ってる?」
「大根おろしに紅葉おろしの素みたいの混ぜるんだろ」
「そういうのもあるけど、今日は唐辛子を大根といっしょにおろしてみたの。ほら、こうやって」
 初江がおろしかけの大根を見せた。切り口に刺しこんだ唐辛子が赤い印を押したようにのぞいていた。
「へえ、紅葉おろしってそうやって作るんだ」
 初めて知った。すべてが新鮮だった。しかし、同時にそのすべてにうしろめたさがつきまとっていた。
 うちでは大根おろしに七味かけるんだ、と言いそうになって言葉を飲み込んだ。
「里芋も煮てみたの」
 鉢をテーブルに置くと、初江はプリント柄のエプロンをとって椅子に座った。
 まるで新婚家庭だ、と浩一は密かに思った。そして、ふとまた、うしろめたさが漂う。
「豚しゃぶなんて久しぶりだな」
「私もひとりだと滅多にしないわ」
 五百ミリリットルの缶ビールを開け、初江が浩一のコップに注ぐ。浩一も初江に……と、缶を手にしようとしたとき指先が触れ合った。ほんの一点が触れただけなのに、指が大人の女になっている、と感じた。
 睦まじい一瞬の沈黙がくすぐったくもあり、うしろめたさで重苦しくもあった。
 乾杯、と囁くように言ったものの、いったい何の乾杯なのか、ちらりと浩一は思う。コップを呷り、ビールが喉を流れてゆく間の沈黙。ほんの短い間にさまざまな想いが行き交う。
「ラジオ、つけようか」
 会話のと切れる不安を吹きはらうように、初江が立ちあがった。テレビはないようで、食器棚の上にポータブルのカセットデッキが置かれていた。スイッチを押す。と、ディスクジョッキーがちょうど曲の紹介を終えたところだったらしく、かぶさるようにイントロが流れ始めた。
 真綿色のシクラメンを恋人の面影に重ねた曲だった。何年か前にヒットしたときはテレビで歌手が歌っていたが、ラジオから流れてきたのは曲を作ったシンガーソングライターが自ら歌うものだった。
 絵画展で初江と再会したときのことが想い出される。淡い期待を抱きながら行ったものの、まさか会えるとは思っていなかった。ふり向いて驚いたのは浩一のほうだった。思わぬ方へ転がりながら、どこかでそれを望む自分がいて、罪深い道を歩みはじめていた。
 めぐる想いに惑いながら、箸先で里芋を掴もうとして何度も失敗した。箸先を滑(ぬめ)る芋が逃げてゆく。
 初江が小さく笑った。そして蓮華をさし出す。
「これ使ったら」
 その声を聞きながら、遠い何かを思い出しかけた。
 遠い昔、どこかで同じことがあった、と感じることがある。大抵は心理学でいう錯覚なのだろうが、これは違う、と浩一は思った。
 蓮池の風景が浮かぶ。池の畔に茣蓙を敷いていた。まだレジャーシートのようなものはなかった。藺草(いぐさ)の青臭い匂いがする畳一畳に満たない小さな空間。それが夫婦の家だった。ただいま、と言って運動靴を脱ぐ。座る。玄関がもうすでに居間だった。茣蓙の上に置かれたプラスチックの茶碗、皿。そのどれにも黒いドングリのようなものが載っている。それはご飯であり、おかずであり、おやつでもあった。

 初江とやっていたままごと遊び。それは夫婦のまねごとだった。それぞれの親をまね、妻を装い、夫を演じる遊びだった。無邪気な遊びだった。だが、今、また夫婦のまねごとをしている。これを無邪気といえるだろうか、と浩一はうしろめたい想いを抱えながら蓮華ですくった里芋を見つめた。
「何考えてるの?」
 初江が不安そうな顔で見る。
「いや、なんにも」
 なんと下手くそな応えだ。自身の声が胸の中でした。ままごと遊びは、何かをまねて演じるもの。ならばままごとをするのだ。演じるのだ。浩一はうしろめたい気持ちをふり切って自身の背中を押した。
「うまい! この里芋、最高」
 笑顔をつくってそう言い、演じた。だが、二つ目を口に入れ、こんどはきちんと味わってみる、と甘辛い旨味がじんわりとひろがった。
「いや、ほんと旨いよ」と、あらためてつぶやく。繕いのない言葉が思わずもれた。
「よかった」
 ほっとしたように笑う。
 新婚夫婦のようなままごとだった。だが、いつのまにか演じることを忘れ、舞台が現実の世界へフェードしてゆく。
「日本茶? 紅茶?」
「今日は日本茶でしょう」
 さも当然のように言っていた。
「私はけっこう紅茶にすることが多いの」
 ティーバッグで楽だし、と言って笑う。遠くだけを見ていた埴輪が目のまえのことに微笑んだように見えた。
 湯呑を浩一の前にそっと置き、ひいた手を左手首に重ねる。もじもじするような、畏まったような仕草。いじらしかった。
 何げない顔で、それでいてじつはかなりの勇気を奮って初江の左手をとる。引き寄せる。と、小さな力で抵抗したものの、手首があらわになる。それを右手で覆う。が、浩一はその手を払い、初江の左手首に唇を寄せた。薄い茶色の痣がある。そこに初江の痛みがあるように思えた。不憫だった。なのにそれをいじらしく、愛おしく思った。唇をのせ、ゆっくりと吸った。初江の腕がぴくりと堅くなった。細い筋が二本浮く。舌の先を押しあてる。こわばった筋がしだいに柔らかく溶けてゆく。
 受け入れられた、と思った。
 戯れでもいい。初江だってわかっている。自分たちは強くなれない者どうし。そんな二人が傷を舐めあい、慰めあって生きて行くことのどこが悪いのだ。誰かを傷つける? そうかもしれない。だが強い者なら深く傷つくことはないだろう。もともと、ただ同情していただけの相手だ。たとえ裏切られたとしても痛みはわずかだろう。そんなかすり傷は自身でひと舐めし、何もなかったように立ちあがり、そして歩き出す。あいつは、彼女は、そういう女だ。
 浩一は坂道を転げるように罪深い谷間に堕ちていった。初江もきっと同じ気持ちで溺れていったに違いない。二人だけの、甘い深みに。

蓮池(2)つづく

※作品中の挿絵は、写真及び著者の詳細指示に基づいてAIで作成した画像を加工編集したものです。




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