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【連載小説】俥曳き俊輔の逡巡(3)

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■前回までのあらすじ
 俥夫の俊輔は、寿福寺の山門前で呼吸不全に苦しんでいた曽賀夫人を助け、人力車で自宅まで送る。夫人の家は鎌倉の旧別荘地にある大邸宅だった。洋館の庭に面したサンルームに招かれ、お茶でもてなされる。曽夫人、蓉子は後妻で未亡人。俊輔は、かつて大学で歴史学を学びながら陸上競技部に所属していた経歴を話すも、箱根駅伝の選手を目指しながら挫折したことは言わなかった。
 曽賀邸の居間には、亡くなった主人が愛でたという青磁の壺と、古の港湾跡、和賀江島で拾い集めた青磁の欠片が飾られていた。後日、俊輔は人力車に蓉子を乗せて和賀江島を訪れ、古の港に想いを馳せる。ところが海辺でバーベキューパーティーをしていた若者が、空き缶を海に蹴り入れたことに蓉子が激怒する。

俥曳き俊輔の逡巡(3)

 バーベキューパーティーをやっていたグループが声高に喋りながら階段を上がってくる。
「ちょっと、あなたたち!」
 鉄板やコンロなどの道具を抱えた一団が姿を現したところで蓉子が声をかけた。怒鳴りつけたといってもいいような言い方だったので俊輔は少々驚いた。言われたほうも、ぎょっとしたような顔でこちらを見る。
「あなたたち、さっきこの海に缶から捨てたでしょ。あれ、ちゃんと取ってらっしゃいな!」
 蓉子が叱りつける。いつもの穏やかな物腰はどこかへ消えている。よほど癇に障ったのか、言いながら目に涙を浮かべている。たしかに石碑にも〈国指定史跡〉と彫られている。バーベキューをやっていた連中のマナーが悪いことは明らかだ。だが、だからと言って……。
「なんなんだよ、おばさん」
 さっき缶を蹴り入れた若い男が赤く腫れぼったい顔で噛みついてくる。そうとう酔っているようだ。タトゥーこそ入っているようには見えないが俊輔は、まずいことにならなければ、と身構えた。
「あなたね、あな……あなたが……」
 そこまで言いかけたとき、急に息づかいが荒くなって胸をおさえはじめた。
 発作だ。まずい。
 蓉子は苦しそうな息をしながら持っていたバッグを開けようとする。が、荒い呼吸で肩を上下させ、手間取っている。俊輔はそれに手を貸してバッグをこじ開けた。あんのじょう酸素缶が入っている。素早く取り出し、カップを蓉子の口に当てノズルを押した。
 言いがかりをつけようとした男は、そのようすを見て戸惑った顔になる。
「けっ、なんだ病人かよ」
 捨て台詞のような言葉を残して仲間とともに逃げるように行ってしまった。
 蓉子の荒い息がしだいに収まってゆく。
「ごめんなさいね。私、つい……」
 カップを通してくぐもった声がする。
「いえ、あいつらが悪いんですから」
 そう言いながら、なぜそんなにまで、と俊輔は蓉子の横顔を見つめた。

          *

 人力車〈爽風亭〉は鎌倉中央図書館から歩いて5分ほどのところにある。観光路からは外れているのでお客が直接訪ねてくることは稀だ。
 神棚を祀った畳の六畳間が事務所兼用の居間になっていて、壁際の小机に電話とパソコンが置いてある。上り口の土間は、店を閉めたあと俥の車庫にもなっていて二台が重なるように停めてあった。

「うちのホームページの英語版のほうな、あれの電話番号なんだけどさ。おまえの携帯番号にしといてくれねえかな」
 爽風亭の親方、佐伯松男のあだ名は無法松だ。短く刈った白髪頭と鰓の張った顎がじつに頑固そうに見える。今ではたくさんの観光人力車が街を走っているが、鎌倉で最初に始めたのはこの爽風亭の親方だ。アルバイトを2、3人雇っていた時期もあったようだが、今は俊輔だけで、二階の三畳間に住み込みで働いている。俊輔の実家は辻堂なので通うこともできたが、大学を卒業していらいあまり帰っていない。家の目の前を箱根駅伝のコースが通っているので、帰れば嫌でも箱根を思い出してしまう。ふつうの人間には何でもない道路が、俊輔にはまだそう思えるようになっていなかった。
「電話に出ていきなり英語で喋ってこられちゃあたまんねえよ。このまえも、おまえがいなかったんで、ハロー、サンキュー、グッバイ、て言って切っちまってさ。あちらさんにもなんだか申し訳なくてな。だからさ、頼むよ、な」
 俊輔に向かって片手で拝むようなしぐさをする。
「え、俺のですか?」とあからさまに嫌そうな顔をしてみせ、「ホームページって世界中から見れるんですよ。時差だってあるし、俺、休日なしの二十四時間勤務になっちまうじゃないですか」と不満をぶつけた。
「まあ、そこんとこは手当はずむからさ。おまえも、もう正社員みてえなもんだしな、うん」
 パソコンに向かってホームページの更新をしていた俊輔は耳だけ親方に向けて画面を睨んだ。爽風亭の英語版ホームページに俊輔の携帯番号を載せるのは気乗りがしなかったが、三食部屋付きという好待遇で雇ってもらっているてまえ断れないと覚悟した。
「ところでよ、最近、おまえ、あの曽賀邸の未亡人にずいぶん気に入られてるみてえじゃねえか」
 親方は紺ラベルの缶からピースを一本引き抜くと、それを煙管(キセル)に挿して火を点けた。煙管をフィルターがわりにしているだけだが、俥夫の装いでそれを吸う姿が妙に絵になっていて、写真をホームページにも載せてあった。
「気に入られてる、なんて、変な言い方しないでくださいよ」
 パソコンに顔を向けたまま、なんでもないことのように言った。しらっと惚けたものの、胸の中が波打っている。桜色のくちびる。顎のほくろ。黒いストッキングの脚が目に浮かぶ。
「おまえも知ってるとは思うが、あの女はとんだ喰わせもんだぞ。東京の女子大出たインテリらしいが、銀座で雇われママやってた、てのは聞いてるだろ」
 曽賀の二代目社長が惚れて銀座のママを後妻にした、という話は巷では有名だ。だが先妻が夫の浮気に悩みながら死んだというのは噂だけで、よく知った人の話では、先妻が亡くなったあと蓉子とのつきあいが始まったということだ。
「曽賀の旦那は腹上死だった、てえ話も知ってるよな」
「いや、あれは嘘らしいですよ。ほんとは夜中にトイレへ行って倒れたんだって。脳梗塞で」
 俊輔は親方をふり向いて言った。
「なんでおまえがそんなこと知ってるんだよ。あれ? 口尖らせちまって。おまえ、なにかい、もうあの女に玩(モテアソ)ばれてるんじゃねえだろうな」
 親方は黄色いヤニの歯をにっと見せて意味ありげな笑いを浮かべる。神棚の白い狐までいっしょになってニヤリと笑ったような気がした。
 脳梗塞のことは由井さんから聞いたことなので間違いない。
「旦那が亡くなってからも若い男と遊びまわってるって噂じゃねえか。どっかの大学の助教授だか準教授だか知らねえが、まあ男の話には事欠かねえよな、おのおばさんは」
 言って煙管を深く吸い、長い煙を吐いた。
 大学の準教授? その話は俊輔も初耳だった。
「まあ、なんだかんだいっても色っぽい女であることは違いねえな、うん。おまえさんも腹上死せんように気いつけるんだな」
 そう言って大口をあけて笑った。
 由井さんから聞いた「本当はトイレで脳梗塞」を信じながらも、もしかしたら世間体を気にして由井さんも本当のことは隠しているのかもしれない。だが、もし仮に腹上死であったとしても、それがなんだというのだ。殺人を犯したわけでもなく、夫の健康に問題があったからそうなったのだろう。そうに違いない。だが、はたして……。遺言、財産、相続といったものが絡んでいるとしたら……。
 俊輔の頭の中に親方の言葉がいつまでも聞こえてくる。腹の上で死ぬ、という場面をつい想像してしまう。と、あの蓉子とその夫が……と目に浮かんでくる。熱くどろどろとしたものが体の中で渦まき、妬ましいような想いと絡んで縺れ、悶々と心揺れるのだった。

「竜崎、右脚、どうかしたのか」
 トラックを十周してゴールすると監督が近づいてきて声を掛けられた。
「いえ、ちょっとつま先がつったみたいで」
 その先の言葉が見つからず口ごもる。
「つま先つって太腿を庇うような走り方するか。正直に言え。肉離れだったら無理して悪くするだけだぞ」
 言われて下を向く。隠し通せる相手でないことはわかっていた。だが今トレーニングを止めたら箱根にはぜったい間に合わない。
「気持はわかるが、おまえだけのチームじゃないんだ。それにおまえ、まだ三年生じゃないか。来年もあるだろ」
 その言葉を聞いたとたんめまいがした。やっと掴みかけた夢が手からすり抜け、遠ざかってゆく。目の前にいる監督の顔がぼやけ、陽炎のように揺れている。
「なあおまえ、四年の連中のことを考えてみろや」
 監督の声色が変わる。気がつくといつのまにか顔が親方になっている。黄色いヤニの歯をにっと見せて薄笑いを浮かべる。
「おまえさんも腹上死せんように気いつけるんだな」
 俊輔のほうも……鯉口シャツに股引、そして地下足袋を履いている。
 夜の路地裏。電柱にしがみついて吐いている。どこかで酒をしこたま飲んだらしい。鼻からも嘔吐物が噴きだしているのが酔って朦朧としながらもわかった。
「竜崎さんのそんな姿、見たくありません」
 背中で声がし、ふり向くと、あいつが立っていた。その女(コ)の目からひとすじ涙が流れ落ちるのを俊輔は見た。なんでおまえが泣くんだ。泣きたいのは俺のほうだ。
 その場にいたたまれずふらふらと歩きだす。どこかで見たような景色、それでいてやはり見知らぬ街を徘徊する。
 いつのまにか館のサンルームにいる。窓から芝生の庭が見え、陽に照らされている。白いテーブルの上には紅茶のカップが二つ。
 居間の奥に大理石の暖炉がある。女が背を向けている。黒のワンピース。黒いストッキングの脚。うなじから肩にかけて覗いた肌が、黒の装いに映えて乳のように白く際立つ。そのうしろ姿が俊輔を誘っているように思えてくる。それに応えるように椅子から立ち、暖炉のほうへ引き寄せられてゆく。ふわふわと、まるで雲の上を歩いているようだ。女の肩から黒いレースのストラップが覗いている。
「その壺は青磁ですね?」
 壺に興味があったわけではない。ただ女のそばへ近づきたいという衝動にかられたのだ。だが返事がない。そっと寄りそい、禁断の果実に惹かれるごとく肩に手を触れようとした。と、そのとき、
「夏蜜柑のママレードをお持ちしました」
 うしろで由井さんの声がした。水をさされたような気がしてふり向く。と……。
「竜崎さんのそんな姿、見たくありません」
 涙を浮かべて立っているのは由井さんではなく……。

 暗い。闇、と思いきや、渦巻き波打つような模様が浮き立ち、やがてぼんやりと形をなしてくる。見覚えのある木目、節穴……、それは蒲団に入ったとき、いつも見ている天井板だ。三畳の小さな空間。親方の家の二階。そこは俊輔が間借りしている部屋だった。
 ―ああ、夢か。
 ほっと安堵の気持が湧く。だが、
 竜崎さんのそんな姿、私、見たくありません。
 そう言って肩を震わせ、やがて背を向けて行ってしまったあのときのことが、夢ではなく、今度は現実の記憶の中によみがえった。

          *

「じゃあ3時に、また来てくれるかしら」
「承知しました」
 蓉子の手をとり、注意深く座席から降ろす。今日はいつもと違って和服を着ているので俥の乗り降りにも少々手間取る。蹴込から踏み台へ降りるとき、利休鼠の小紋の裾から一瞬覗いた脛が、やはり乳のように白かった。
「では、お気をつけて」
 蓉子の背中に向かって頭を下げる。
 ――あ、いつもとちがう。
 着物からふと漂った香りに胸がざわめく。

 若宮大路に面した生涯学習センターの入口には今日催される講演の題目が掲示されていた。
『中世鎌倉の禅文化』講師 城山学院大学準教授 江波浩二。
 蓉子には俊輔が史学科だったという話はしていたものの、どこの大学だったかまでは言ってなかった。
 江波浩二。その名前には憶えがある。だが準教授という肩書に、おや? と思った。俊輔が学生だったころはたしか講師だったはずだ。同じ史学科でも専攻が違うので講義を受けた記憶はない。だが、見た目も若々しく女子学生にも人気があったことは記憶にある。俳優の誰々に似ているというようなことを学食で女の子が話していたのを思い出す。だが、良くない噂も耳にした。教授の娘と婚約していながら、その一方で院生の女子とつきあっているという陰口だった。
 しかし準教授になった、ということは……。
 そんなことは俊輔の知ったことではない。あれこれ想うことをやめようとした。なのに、ふと親方の言った言葉が頭を過る。
 ――どっかの大学の助教授だか準教授だか知らねえが……。
 人の噂など、と思ってはいても心が揺れた。
「雨上がりの雲間から見えた青空のような色の器を作れ」と、後周の柴栄が命じた、という話をしたときの蓉子を思い出していた。あのとき、彼女はうっとりと夢を見るような目をしていた。あの話は江波浩二がしたのだろうか。なぜか、ふと、そんな気がした。

 その日の2時を過ぎたころ、蓉子から、今日は講演のあと先生を囲んでお茶会をすることになったので迎えはいらなくなった、という連絡が携帯に入った。
 ――お茶会……。
 俊輔は、ため息をつきながら携帯を閉じた。

つづく
次回(4)はコチラ

<ご参考>
■和賀江島のドローンによる空撮動画(Youtube)

■和賀江島に関する詳細


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