ハーンのアイデンティティ
1.小泉八雲といえば怪談?
ラフカディオ・ハーンといえば小泉八雲。島根県の松江に滞在して日本の怪談話を採集し、英語で『KWAIDAN』を出版した人として有名ですよね。中学や高校の英語の教科書にも『耳無し芳一の話』、『雪女』が載っていました。(最近の教科書はどうなのかな?)
『KWAIDAN』の表紙
『KWAIDAN』に収められた「ろくろ首」の挿絵
2.ラフカディオ・ハーン=怪談、ではない
『KWAIDAN』のような「怪談物」は、ハーンの世界のほんの一部でしかないのです。ギリシャで生まれ、アイルランドで育った彼は、ケルト神話やアイルランド妖精譚の世界に触れます。怖~いものが好きなところはアイルランド時代に培われたものでしょう。(彼自身、幼いときは「怖いもの」が怖かったようですが……)
若き日のラフカディオ・ハーン
アイルランドの墓所の風景
環のついたケルト十字の墓標が特徴的。
ハーンは、明るい陽の光あふれる南ギリシャから、どんよりと雲が低くたれこめたアイルランドヘやってきました。
妖精物語の世界
妖精というと、日本では美しく可愛らしいイメージがありますが、アイルランドでは、どちらかというと怖~いものが多く、妖怪と言った方がイメージに近いようです。
アイルランド妖精物語に登場する「妖精の輪」
妖精の国への入り口です。
ケルト神話の世界
さまざまな神々が登場する多神教の世界は、古事記など日本神話にも通じるところがあり、ハーンが日本に親しみを覚えたことと無関係ではないでしょう。
アイルランドでの経済的保護者であった大叔母が破産すると、ハーンは無一文で単身アメリカへ渡りました。貧しい生活をしながら図書館で仏文学に親しみ、文芸評論や翻訳もし、さらには東洋の古典や仏教も学びました。また、新聞記者になってからは、独特な記事が評判になり、ニューオーリンズや西インド諸島のクレオール文化を研究し、小説も出版しました。彼の感心の多彩さには、まったく驚かされます。
19世紀末のニューヨーク港
ハーンが乗った当時の移民船は棺桶船と言われるほど劣悪で危険な航海でした。まだ自由の女神の立っていないニューヨーク港へ、命からがら到着したのです。
19世紀末のニューオーリンズ
この街で、ハーンは新聞記者として活動。文筆を磨き、作家としての道を歩き始めます。
マルティニーク島の港湾の風景
ハーンは、この島に二年間滞在して作品の取材をしました。陽光あふれる熱帯に憧れるハーンに、日本の怪談作家の面影を重ねるのは難しいでしょう。
小説『チータ』の表紙
『チータ』は、1856年にルイジアナ州を襲った大嵐を題材にした物語で、その制作過程は『ラフカディオの旅』でも描いています。
小説『ユーマ』の中表紙
『ユーマ』は西インド諸島のマルティニーク島の奴隷を主人公にした物語で、『ラフカディオの旅』でも、その背景と制作過程を描いています。
3.日本には短期間の取材旅行のはずだった……
ハーンは、もともと日本には短期間の滞在で紀行文を書く仕事を終えたら、アメリカへ帰る予定でした。ところが、横浜へ到着後、鎌倉、江の島を訪れた時、何かが彼の心を動かします。すでに松江へ行く前に、日本への長期滞在を決意したと思われるのです。その時、彼が出会ったものとは、いったい何だったのでしょうか?
明治時代の江の島(写真:新関コレクション)
ハーンが訪れた時は、まだ橋も架かっていませんでした。潮が引いた時を狙って、干潟の道を歩いて行ったはずです。
ハーンは鎌倉を訪れたあと、人力車で極楽寺坂切通しを抜けて江ノ島に行ったと思われます。
その様子はコチラをご覧ください➡ 切通し(2)の2 ―極楽寺坂とラフカディオ・ハーン―
(この記事を書いたことで、私はラフカディオ・ハーンに興味を持ち始めました)
4.なぜ日本で生涯を終えることになったのか?
小説『ラフカディオの旅』では、地球を三分の二周したハーンの漂泊の旅路を辿りながら、その答えを探ります。豊富な知識と多彩な文芸の才能を持った彼の旅には、苦悩と感動、そして不思議な出会いに溢れています。ぜひ、『ラフカディオの旅』で彼の漂泊の人生を疑似体験してください!