源実朝暗殺の謎を解明する小説『春を忘るな』を書くに至った訳
1.源実朝の死の謎
建保七年(1219年)一月二十七日、鎌倉幕府第三代将軍、源実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の最中に、甥の公暁に暗殺されたことになっています。しかし、その死にはいくつかの謎があります。小説『春を忘るな』の世界へ入る前に、その謎を整理しておくことにします。
(1)甥が肉親の叔父を殺す?
源実朝殺害の実行犯が公暁であることは、ほぼ間違いありません。実朝にとっては甥。甥が肉親の叔父を殺害して将軍になろうとする。そんな陰惨な行為も中世の価値観、倫理観からすればあり得るのかもしれません。ならば、そんな中世人の心模様とはどんなものだったのか?
(2)政子は我が子を暗殺されても尼将軍でいられる「鉄の女」だったのか?
北条政子は腹を痛めた我が子を、二人も陰惨な暗殺で失いました。しかも、孫(公暁)が子(実朝)の首を切って持ち去るという凄惨さは、普通の母親ならば聞いただけで卒倒してしまうでしょう。それなのに、その後の「承久の乱」では尼将軍と称されるほど気丈に振舞い、幕府軍の士気を鼓舞しました。まともな人間感情の人であれば「尼将軍」どころではなく、傷心の「尼僧」として我が子の菩提を弔うことしかできなかったはず。はたして政子は「鉄の心を持つ女」だったのでしょうか?
(3)なぜ将軍、源実朝の御首は消えたのか?
実朝は鶴岡八幡宮で殺害された際、御首(ミシルシ)を持ち去られ、首無しの遺体が勝長寿院に葬られました。なぜ、そのようなことになったのか? 織田信長のように火中に消えたわけではなく、幕府は実朝の御首を携えていた公暁をその日のうちに捕えて誅殺しています。公暁の携えていた御首はどこへ行ったのでしょう? 公暁がどこかへ落としてしまったなら行動範囲はほぼ特定されています。幕府はどんなことをしても探し出して(たとえ嘘でも)きちんと埋葬する(埋葬したことにする)はずです。
鎌倉から30㎞ほど離れた神奈川県秦野市に「源実朝公御首塚」があります。『吾妻鏡』も『愚管抄』も、これにはまったく触れていません。もし誰かが、そこに実朝の御首を埋めたとしたら、なぜ、そんなことをしたのか? 幕府や政子がそれを知ったら、掘り出して勝長寿院に再葬し、首塚というような忌まわしいものは残さないはずですが、史料上そんな動きはありません。まったく不可解です。
源実朝公御首塚(神奈川県秦野市)
(4)「春を忘るな」は辞世の句なのか?
出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
源実朝の辞世の句と云われています。でも、この歌には死の予感、覚悟といったものより、どこか希望にも似た何かを感じるのは私だけでしょうか……。
2.謎を解くための小説『春を忘るな』
どんなに綿密な史料研究を重ねても、過去に起きた事実はタイム・マシンに乗らない限り見えません。見えない部分を見るには、史実とされている事柄を点とし、点と点の間は人物の動機を推定して線を描く小説という手法があります。私は、この手法を使って『春を忘るな』を書くことで、源実朝の死の謎を解明します。読んでいただければ嬉しく存じます。