人力車の俥夫さんを主人公に据えた短編小説
■鎌倉の風景に溶け込んだ人力車
鎌倉の街を歩いていると人力車をよく見かけます。京都や浅草でも目にしますが、私は鎌倉びいきなので鎌倉の人力車がいちばん街の風景に溶け込んでいると思っています。
現在の人力車は、生活の足というより観光用ではありますが、鶴岡八幡宮で祝言を挙げる新郎新婦を乗せた人力車などは、じつに絵になります。
俥夫の青木さんは、鎌倉人力車のさきがけ。
■映画や小説で扱われた人力車
ところで「人力車」といえば何を思い出しますか?
映画の『無法松の一生』と答えるのは、ご年配の方でしょう。原作小説の題名は『富島松五郎伝』。荒くれ者だが人情に篤い俥夫の松五郎は、堀に落ちてけがをした少年、吉岡敏雄を助けます。それが縁で吉岡家に出入りするようになった松五郎は、陸軍大尉だった敏夫の父が亡くなると吉岡母子に献身的に尽くすようになります。吉岡夫人も松五郎を頼りにし、やがて松五郎は夫人に淡い想いを抱くようになる……。
映画は何作か作られましたが、これは坂東妻三郎主演
こちらは三船敏郎主演
人力車は明治時代初期に出始めた乗り物です。夏目漱石の小説によく登場したようなイメージが私にはあります。
夏目漱石
明治初期の人力車の車輪は木製で、ガタガタ音を立てて走っていたのが、私の微かな記憶では、漱石の『こころ』に「人力車の車輪がゴムタイヤになったのでうるさくなくなった」というようなことが書いてあったような気がするのですが(私の記憶違いの可能性あり)、書棚に本が見つからず、確かめられていません。どなたかご存知の方がいれば(何かの折りに)教えてください。
■鎌倉の若い俥夫さんてどんな人?
観光地の人力車は観光ガイドの役も担っていますね。よく、お寺の山門前で乗客の若いカップルに史蹟の説明をしている姿を見かけます。
そんなとき、私はそっと近寄って聞き耳をたてることがあります。なにしろタダで観光案内が聞けますからね。「なるほど」、「ふむふむ」、「へえ、そうなんだ」。でも寿福寺の山門前で「こちらのお寺の墓地には源実朝と北条政子のお墓が……」という説明には、「おいおい、ちょっと待て」とツッコミを入れたくなることも……(これについては「これが源実朝の墓?」をご参照ください)
そして、この俥夫さん、アルバイトかな? 時給はいくらなんだろう? どんな経緯(イキサツ)で俥夫になったのだろう? 少なくとも健脚でなければできない商売だよな。もしかして学生時代は体育会系? などなど想像を膨らませていると、ある若い俥夫の声が聞こえてきました。いえ、耳に聞こえてくるのではなく、頭の真ん中で声がするのです。そんなとき、私は、その声に耳(いや頭?)をかたむけ、物語に描き落とすのであります。主人公の名は俊輔(シュンスケ)。たしか、そう言ってました。なにやら逡巡しているようです。どうして? それは物語の中で……。
それでは『富島松五郎伝』の松五郎と鎌倉のすべての俥夫さんに敬意を込めて、『俥曳き俊輔の逡巡』をお送りします。