稲村ヶ崎といえば、上のキャッチ画像のように、新田義貞が断崖の上から黄金の刀剣を投げ入れたところ、たちどころに潮が引いて陸伝いに鎌倉に攻め入ったという伝説が有名ですよね。
ただ、この伝説に至るには新田軍もかなりの苦戦を強いられたようです。
鎌倉は三方を山に囲まれ、一方(南)が海という天然の城塞都市でした。城壁となる三方の山脈には「切通し」という山を掘削した道が七つあります。(鎌倉七口については別記事【切通しシリーズ】で詳しくご紹介します) 当初、新田軍は切通しから攻め入ろうとしましたが北条幕府軍の堅い守りに阻まれて攻め入ることができませんでした。とりわけ化粧坂切通し、極楽寺坂切通しでは甚大な被害を受けたようです。そこで新田義貞が最後に仕掛けたのが稲村ヶ崎だったのです。
黄金の刀剣を海に投げ入れて龍神に祈った、という話が有名ですが、おそらく自軍の兵へのパフォーマンスだったのでしょう。遠く上野の国(現在の群馬)から進軍してきたうえ攻めあぐね、疲れきった兵たちの士気を鼓舞するために、リーダーである義貞は一世一代の大芝居を打ったのではないでしょうか。刀剣を投げ入れたから龍神が義貞の願いを聞き入れた、などという話は現代人の私には信じられません。おそらく地元漁師に褒美でも与えて、潮の干満の時期を教えてもらったのでしょう。私も満月の大潮の晩、潮が引いて稲村ヶ崎の磯が露わになったのを見たことがあります。干上がった磯が月明かりに照らされた光景は、神秘的で幻想的な雰囲気が漂っていました。おそらく義貞は潮の引くタイミングを見計らって刀剣のパフォーマンスを演じたのでしょう。興奮した兵たちの鬨の声が聞こえてくるようです。その様子を想像すると、私には映画『史上最大の作戦』(The Longest Day)が目に浮かんできます。あの有名なミッチ・ミラー楽団のマーチと口笛が聞こえてくる、なんて言ったら年代がわかりますね。
現在の稲村ヶ崎。手前が七里ガ浜。岬の向こう側が義貞の攻め入った鎌倉市内。
私は、『面の血脈』という小説のプロローグで、この新田義貞の稲村ヶ崎伝説を登場させています。ぜひ本編を読んでいただきたいのですが、『オリンポスの陰翳』第一刷が完売にならないと出版できません。まずは『オリンポスの陰翳』を宜しくお願いします。