<この記事は、切通し(5)―大仏坂― の続編です>
私は鎌倉警察署長の大仏(だいぶつ)と申します。じつは少々面倒な事件が起きまして、このままでは迷宮入りになってしまうかもしれません。今日は正式な捜査ではありませんが、関係者にお集まりいただいて、事件解明の糸口を見つけたいと考えております。
この鎌倉文学館も、今日は月曜日とあって休館日です。署長の顏、いえ失礼、いささかツテがございまして、文学館の談話室をお借りすることができました。なぜ文学館で、とお思いでしょうね。警察署の取調室というのは、じつに殺風景なものでしてね。緊張感といいますか、人間の心に壁を作ってしまうところがあるのです。ということで、この落ち着いた雰囲気の中で、関係者の本音を聞くことができればよいと思っておるわけです。
この談話室は文学館がまだ前田侯爵(加賀百万石の藩主、前田家の系譜)の別邸であったとき、来客用の寝室だった部屋です。大きな格子の窓、黄色のステンドグラスを通して、午後の陽が柔らかく室内を照らしています。広い芝生の庭の向こうには相模湾の水平線が眩しいほど光っています。
すでに重要参考人の森園伸也氏は到着しており、さきほどから部屋の中を忙しなく歩き回っています。氏は遅咲きながら、最近、小説家デビューをして、本を何冊か出版したようです。捜査課の稲荷刑事は、いつものキツネのような細い目で、ちらりちらりと森園氏の方を伺っています。あとは一色先生が到着されるのを待つだけです。一色先生はミステリー作家ながら、その卓越した推理力で鎌倉警察署の顧問となっていただいている人物です。
大仏署長と一式先生
「いやあ、遅くなりました。すみません」
むさ苦しく伸びた髪を真ん中分けした男が、汗を拭きながら、入ってまいりました。一色正和先生です。
「先生、お忙しいところご足労いただきまして、ありがとうございます」
私は、内心、少々苛々していたのを抑え、笑顔を作って迎えました。
「こちらは森園先生。同業の作家さんです」
一色先生に紹介すると、森園氏は少し卑屈な感じのする笑顔を浮かべて頭を下げました。
「お会いするのは初めてですが、お名前は存じております」と一色先生が握手の手を差し延べると、
「いやあ、こちらこそ一色先生にお会いできて光栄のいたりです」
森園氏が一色先生の手を握り返します。
同業者であり、ある意味、二人はライバルですが、超人気作家の一色先生に比べれば、森園氏は駆け出しの新米です。
「今日、お集まりいただいたのは、すでに報道でご存知とは思いますが、文芸評論家、山野康俊氏殺害事件の解明について、みなさんのお力を拝借したいと思ったからです。それでは、詳細を稲荷刑事から説明させていただきます。
本人は、ハイと言ったつもりでしょうが、コンと聞こえて稲荷刑事が立ち上がりました。
正面が鎌倉警察署の稲荷刑事
「それでは、ご説明させていただきます」
稲荷刑事の細い目が吊り上がります。彼が本気モードに入った時の顏です。
「9月×日の午後3時、極楽寺の谷戸、最も奥にある自宅で山野康俊氏が殺害されました。ガイシャ、イヤ失礼、被害者は包丁で刺されていることから殺人事件であることは間違いありません」
説明しながら森園氏をちらりと見ます。と、彼は稲荷刑事から、すっと目を逸らせたように見えました。
「隣家の奥方が、争い合う声と、その直後の悲鳴を聞いているので死亡時刻は午後の3時にほぼ間違いありません」
「というと検死による死亡推定時刻ではない、ということですかな」
一色先生が腕を組みながら稲荷刑事を見ます。
「検死官による死亡推定時刻と隣家の奥方が聞いた悲鳴の時間が一致していますので間違いないかと」
稲荷刑事は、自信ありげなドヤ顔で一色先生を見、それから森園氏を見て話を続けます。
「事件の一週間前、山野氏は推理小説家の森園伸也氏と江の島弁天橋のおでん屋台で会食していた事実が判明しています。屋台の主人の証言では、二人は何か言い争っていたようだとのことですが、どの程度の諍いかは、わかっていません」
「ただ文学論を戦わせていただけですよ。いつものことです」
森園氏は稲荷刑事の説明を遮って、さも大したことではない、という顔をしました。
「たしかに……、一度は森園氏も被疑者として浮かび、任意同行いただいて聴取させていただきましたが、犯行日時にはアリバイがあることがわかりました」
稲荷刑事が、少し残念そうな顔をすると、森園氏は、それみたことか、と言いたげに薄笑いを浮かべました。
「アリバイ、といいますと?」
一色先生が体を乗り出す。
「犯行時間から15分後の午後3時15分に、森園氏は大仏坂切通しにいたことがわかっています」
源氏山から来た女性二人組のハイカーと遭遇し、お互い相手のスマホで写真を撮っていて、その時刻が午後3時15分。二人組の証言と証拠写真も取れているという。
「犯行現場の極楽寺の谷戸奥、山野邸から大仏坂切通しの写真撮影場所までは最低でも47分。江ノ電の待ち時間によっては1時間近くかかります。とても15分では……」
稲荷刑事は無念そうに細い目がさらに細くなります。森園氏は椅子にふんぞり返って、また薄笑いを浮かべました。
山野邸は極楽寺の谷戸の最も奥。江ノ電極楽寺駅までは徒歩15分。極楽寺駅から長谷駅は一駅で2分足らずですが、待ち時間があれば最大で12分余計にかかります。長谷駅から切通しの写真撮影場所までは30分。周辺の防犯カメラでも二輪車、自動車を使った形跡はない、ということです。
「つまり江ノ電を使って極楽寺駅、長谷駅、そして大仏坂切通しというルートだったら47分から1時間ということですね? でも地図を見ると、山野邸から大仏坂切通しまではそう遠くはないですよね」
一色先生は、カバンから「鎌倉市全図」という地図を出して広げた。
「まあ、直線距離ではそうですが、でもここに尾根があって道はありません。この尾根山はとても越えられませんよ」
稲荷刑事は地図を指さしながらため息をつきました。そこからは私が補足します。鎌倉という土地は三方を山で囲まれ、一方が海。鎌倉時代から天然の要塞と言われています。山側は尾根が複雑に張り出し、かつて幕府の御家人たちは、その間の谷間(谷戸)に館を建てていました。というのも、背後と両脇を尾根山に囲まれて敵の侵入を防げたからです。現在も、人々は谷戸ごとに町内会などのコミュニティーがあって、他の谷戸の人とは生活空間が分断されています。鎌倉の尾根山は、いわば強固な壁のようなものなんですよ。
私の説明に、一色先生は、腕を組んでうなずいていますが、何か思うところがあるような顔をしています。
「なるほど。わかりました」とうなずくなり、「ところで」と、刑事コロンボのように顔を森園氏に向けました。
「森園さんは、江の島弁天橋の近くにある『おおき』というおでん屋さんをご存知ですよね」
言われた森園氏は怪訝な顔で一色先生を見返します。
「じつは先代のママが私の卒業した鎌倉高校の大先輩でしてね。懇意にしている店なんです。で、今のママは、その先代の娘さんなんですが、私と中学の同級生でしてね、先日、久しぶりに行ったんですよ。そうしましたら、偶然、数日前に森園さんもいらっしゃったことがある、という話になりましてね。いやあ、おでんて、旨いですよね。私もですが、森園さんもお好きなんでしょう。その日は弁天橋の屋台おでん屋のあと、ハシゴで二軒目の『おおき』にいらしたようですね」
一色先生が森園氏の顔をのぞき込むように見る。と、森園氏は、少しうろたえたような顔をしました。
「稲荷君、今の話は知っていたかね?」
私は、稲荷刑事の方をふり向きました。と、
「いえ、知りませんでした。ああ、あのあと、もう一軒行ってたんですね」
意外な顔をします。私は少々あきれました。まったく捜査のツメが甘い。
「さきほどは文学論と仰いましたが、盗作だとか、パクリ、あるいは二番煎じなんていう言葉まで飛び交って、かなり激しくやりあっていたとか……」
一色先生が詰め寄るように森園氏を睨みます。と、顔がみるみる青ざめてきました。
「私は盗作なんかやっていない!」
急に激昂した表情になったのです。
「いやあ、でもミステリーではトリックが似通ってしまうことは往々にしてありますよね」
一色先生、こんどは森園氏をなだめるように表情を和らげます。
「たしかに似てはいる。しかし絶対に盗作なんか……、私は……」
「私もミステリー作家ですから、よくわかりますよ。トリックの手口がアガサ・クリスティーと同じだ、なんて言われたこと何度もありますよ」と渋い顔をします。
「あいつは、あいつは……『推理小説マガジン』の来月号の書評で、私の『極楽寺坂殺人事件』が『鎌倉物語』の盗作だと書いてやる、って言ったんですよ、あのとき」
青ざめていた顔が、今度は真っ赤になります。
『鎌倉物語』第一巻
「それで山野さんを殺害した、ということですか?」
一色先生の顏から、それまでの温和な表情が消え、棋士が王手をかけたような顔になりました。
「いや、やってない。さっき刑事さんが言ったように、私にはアリバイが……」
「そのアリバイなんですがね。私も山歩きは好きな方でしてね。鎌倉七口は一応全部歩いてるんです。で、あの大仏坂はね、入口がわかりづらくてね、間違って、山の頂上にある長谷配水池のほうへ行ってしまったことがありましたよ。で、排水池から尾根の向こう側へ下りると、もうそこは極楽寺二丁目。切通しからでも、山野さん宅までは15分くらいでしょう」
森園氏は、赤くなっていた顔がまた青ざめ、膝の上で握っていた拳がブルブルと震えだしました。
「うーむ、切通しで女性二人組と出会った時刻から遡ると犯行時刻にぴったりですな」
私は、一色先生と稲荷刑事の顔をかわるがわる見ました。
山野氏を殺害した森園氏は、長谷配水池から大仏隧道の上を通って大仏坂切通しへ行き、出会った二人連れの女性ハイカーと写真を撮り合った。ちょうど犯行から15分後で、それが有力なアリバイとなった。
「そうか。地図に道はなくても、そんなショートカットのルートがあったのか……」
稲荷刑事はウーンと唸ったつもりでしょうが、コーンと悲し気な遠吠えに聞こえました。
「しかたなかった……。しかたなかったんですよ。盗作なんて書評書かれたら、私は、私は、作家としてもう……」
森園氏の目から、どっと涙が溢れ出ます。
落ちたか……。ほっとするような事件解決の安堵と同時に、何かやり切れない、いつもの、あの悲しみに似た胸の痛みを抱きながら、私は言いました。
「森園さん。署までご同行願えますか」
稲荷刑事が手錠を出そうとしたのを見て、私は、目で、それを制しました。まだ逮捕状も出ていないのですから……。
黄色のステンドグラスを通して、柔らかな陽光が部屋を照らしています。
稲荷刑事は森園氏を伴って文学館をあとにし、鎌倉警察署に向かいました。
一色先生と私は、二人並んで窓の外を眺めます。
芝生の庭の向こう、遥か遠くの海が西日を照り返し、煌めいています。
「同じ作家として、私も彼の気持はわからんでもありません。盗作と言われるのがいちばんつらい。彼のその作品は、おそらく盗作ではないでしょう。トリックが偶然かぶることはありますよ……」
「それでも犯罪はいけません」
私は、警察署長としての良心。いや、一警察官となったとき胸に刻みつけた想いをこめて、そうつぶやきました。
「もちろんです」
一色先生も、きっぱりと言います。
「一色先生は、他の作家の作品とトリックがかぶったらどうされますか?」
「私はミステリー作家ですが、トリックで勝負するつもりはない。トリックなんてものは、ほぼ使い尽くされてますからね。そんなもので作品が盗作かどうかなんて言えるものではない……」
思いつめたように言葉が途切れます。が、私は、一色先生の次の言葉を待ちました。
「やむにやまれない犯行、というのがあるのです。それをどう描くか……、ですよ」
一色先生は、水平線を、まぶしそうに見つめながら、つぶやきました。
「やむにやまれぬ犯行、ですか」
私は、その言葉を噛みしめ、深く胸に刻みつけました。
『大仏坂切通し殺人事件』おわり
あとがき
大仏坂切通しを訪れた日の晩、金曜ロードショーでアガサ・クリスティー原作の『オリエント急行殺人事件』を見ました。ジョニー・デップも出てましたね。いい味出してるぜ。と、久しぶりに見入ってしまう良い映画でした。見終えるやいなや、よし、俺も本格ミステリーに挑戦してみよう、なんて身の丈に合わないことを唐突に考えついたわけです。で、書いてみたのがこのショートストーリー。(笑)
大仏坂切通しの入口で[道に迷ったあの経験]をヒントにトリックを作ってみました。しかし、やはり自分には「緻密なトリック」を要求される「本格」ミステリーは無理だな、と悟りました。地元の方や『鎌倉物語』ファンの皆さまなら、あんなショートカットルートはいくらでもある。稲荷刑事が、あの程度のアリバイを崩せないはずはない、とお思いでしょう。ですよねえ~。稲荷刑事、すみません。
「本格推理」は無理としても、小説の中に、少しだけミステリーの要素を埋め込むことは、こんな私にも許されるでしょう。拙著『オリンポスの陰翳』は1964年の東京オリンピックを起点に、ベトナム戦争、学生運動の荒波を経て、主人公たちが、暗く長い旅路の果てに再会し、彼らにとっては暗い過去の因縁でしかなかったオリンピックという祭典を、再び、どのように迎えるのか、という物語です。ミステリーではありませんが、主人公の一人、源蔵には秘密があります。「ねんきん定期便」で二十代の10年間、年金未納の空白があります。その10年間に何があったのか。妻の恵子の胸には、それが鉛のように重く澱んでいましたが、物語の中で解き明かされてゆきます。他にもいくつか小さなミステリーの欠片を散りばめてあります。推理小説ではありませんが、よろしければ『オリンポスの陰翳』を読んでみてください。
森園 知生