5.著作のこと

【連載小説】春を忘るな(13)

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■前回までのあらすじ
 大学で考古学を学んだ憲二は、恩師、吉田教授と小町裏通りのスナック[段葛]で歴史談義する中、[段葛]の女将(ママ)は鎌倉時代を、まるで見てきたかのように語りだす。
 実朝は疱瘡を患い、熱にうなされて自らの首を切られる悪夢を見、自身も兄や父のように殺されるのではないかという疑念を抱く。やがて疱瘡が癒え、鏡に映った自身の顏を見て失望するが、宋への憧れは抱き続けた。和田義盛が乱を起こすが、幼なじみの和田朝盛からの手紙で、和田に謀反の心はなく、義時への抵抗だったことを知るも和田は滅んだ。  陳和卿(チンナケイ)という宋国出身の僧が、実朝に面会を求めてやってくる。義時は、よく思わなかったが、実朝は喜んで和卿を受け入れる。唐船があれば宋に行けるという話になり、実朝は和卿に唐船の建造を命じるも、政子や義時は実朝の渡宋に反対する。

   * * *

 

 凛と晴れた冬の日だった。縮緬(チリメン)のような海面が日にきらめいて眩しい。右手には亀の子のような江ノ島が浮かび、水平線には青く霞んだ大島が見える。実朝は新年恒例の二所詣で、伊豆からもどったばかりだったが居ても立っていられず浜にやってきた。
「船の骨格はたいぶ出来てまいりましたなり」
 和卿が眩しそうに目を細めて船を見つめる。
「あれが竜骨というものか」


 実朝は和卿の目線と同じ方を見つめたまま言った。そこにはたしかに竜の背骨のように湾曲した芯材が横たわっていた。そこからあばら骨のような細材がはり出して透かし彫りの船底を形づくっている。まるで打ち上げられた大魚(クジラ)の躯が朽ちて骨だけになったかのようだ。
「そうてす、そうてす。あの船の背骨てもある竜骨が船の底から張り出て横流れを止めるなり」
 満足げにうなずく。
「大工たちのようすはどうだ?」
 水軍を擁する三浦義村が船大工を用立てていた。
「大きな差し障りはありませぬなり。あの者たちは部材を造る技においてはたしかなものを持っておりますなり」
 唐船の構造には疎いが、そこは和卿がしっかり采配をふるったということだろう。
 館を建てるときのような鎚音が浜辺に響いている。ふだんは弓馬の武術鍛錬の場であった浜が寺院の建設現場になったかのようだ。
「いよいよだな」
「はい」
 骨格だけの大船を見つめながら二人してつぶやく。目的の意味こそわずかに違えど目指す地点は同じ同志になっていた。
「和卿殿はどうしてこの国へ参ろうと思ったのか?」
 工人として東大寺の普請を務めた話はよくよく聞いている。が、本音はどうだったか、ふと知りたくなった。
 あらためて聞かれた和卿は、うーむと少し考えるような顔をしてから口を開いた。
「宋の国では先が見えてましたなり」
「先が見えていた?」
「はい。とんなに勉強してもその足元にもととかぬような偉い坊様がたくさんおりましたし、仏師も工人もそうてしたなり」
「なるほど、宋とはたいそう進んだ国なのだな」
 だからこそ栄西禅師もあれほど憧れたのだ。
「それで、自分の力を試すことのできる未知の国を目指すことにしたのてすなり」
「それが、この国だったということか」
「はい、そうてす、そうてす。ても、今思えば、ずいぶん見栄をはった若者たった、ということてすなり」
 ため息をついて肩を落とす。この男を知ってからはじめて見る力萎えた顔だった。
「そのようなこともなかろう」
 半分はそうだと思いながらも慰める。
「たからこの国の勧進僧たちから妬まれたのてしょう」
 小さく首をふる。
「東大寺の件か」
 和卿が寺院造営の材木を着服したため勧進職を追われたことは聞いていた。
「あの材木は私が最初から船を造るためにいたたく約束をしていた山のものてすなり。あの山の木をのぞいて他のすべてを大勧進職様に寄進したのてすなり。それを……」
 早口でまくしたてたあと、また肩を落とす。
「まあ、よいではないか。今、こうしてまた船を造ることができるのだから」
 また慰める。
「はい、そうてすなり。殿下のようなこころ強い味方がてきましたゆえなり」
 言って上目づかいに実朝を見、小さな笑みを浮かべた。
 和卿は帰りたい。実朝は行きたい。目的の意味は少し違えど、運命をともにする同志だった。それに、夫々自身の国の身分、役割の枠にはめ込まれたくないという感じ方は似ていた。
「ひとつ聞きたい。吾の父、頼朝の面会を拒んだのは何ゆえだったのか」
「失礼ながら、あれは、お断りしたとき申し上げたことに偽りはございませぬなり。戦(イクサ)とはいえ、お父上殿は多くの人を殺めました。私はまだ若い僧侶でしたゆえ、それは許せなかったのにございますなり」と言って沖を見つめる。だが昔を悔いるような目をして「ても、今思えば、ずいぶんと小賢しい若者てしたなり」と薄い笑みを浮かべた。
 実朝は和卿という男を信頼してよいと思った。
「たしかにのう。争いのない国へ行きたいのう」
 ふと、比企一族、兄の頼家、そして和田一族のことを想った。権力の奪い合い。血の抗争はもうたくさんだ。
「はい。ても、そのような国はありませぬなり。宋も周りの国といつも争っておりますなり。とりわけ騎馬の民との闘いは尽きませぬなり」
「騎馬の民はそれほど戦好きなのか?」
「はい。てすから玉門関より西へ行くのは危のうござりますなり」
 実朝が西域に憧れているのを知っている和卿は言いながら実朝の顔をのぞき込む。
「そうか騎馬の民とはそのような荒くれ者か」
「まあ、とうしても西域へ出るなら関銭を渋らぬことてすなり」
 実朝を見てにたりと笑う。
「関銭を払えばよいのか?」
「はい。あの者たちは関銭抜けをした者には厳しく、縄で縛って馬で引き摺りまわしたうえ首を刎ねて街道に晒すと聞いておりますなり」
「なんと……」
「ても、関銭をはずめばその馬賊の領地を出るまで護衛もしてくれるそうてすなり」
「ほう」
「まあ、そのあたりは、この倭国の瀬戸内の海賊と同じてすなり」
 和卿は沖に目をやったまま笑った。
「なるほどのう。地獄の沙汰も銭しだいと言うわけか」
「ああ、それ、それと同じ言い方、宋にもありますなり。『銭さえやれば鬼を小間使いにして石臼をひかせることたっててきる』」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 実朝は口元を緩ませたまま沖の水平線を見やった。そこにまだ見ぬ宋の陸が目に浮かんでくる。
 和卿も実朝の視線を追って沖を見やる。


「あの海と空の極目が見えますなり。その向こうはとうなっているか、ご存知かや?」
 いたずらっぽい目で実朝に目を向けた。
「うーむ、それがようわからぬのだ。幼いころは、滝のように海の水が落ちているようにも思っていた。だがそれでは宋の国はのうなってしまう」
 それがずっと知りたかった。初めて浜に来たときから、ずっと思い続けていたことだ。
「寧波(ニンポウ)からこの倭国へ来たとき、空と海の極目から最初に見えてきたのは倭国の山てしたなり」
「はて、山、とな?」
「はい。はじめに雲のかかる山の頂が見えてきて、やがて麓に広がる陸が見えて、そしてようやく浜が見えてくるのてございますなり」
「ほう。そうなのか」


 実朝は、まだ、その場景が頭に描ききれていなかった。
「それが、とういうことなのか、お分かりかや?」
 薄い笑みを浮かべ、謎かけのように問うてくる。
「うーむ、わからぬ。知っておるなら早く申せ」
 実朝はじれて扇子を握りしめた。
「とうやらこの大地は、いや、海もともに、蹴鞠のような丸い玉になっているようなのてすなり」
 ――蹴鞠のような玉だと?
 実朝は和卿が何の話をしているのか一瞬わからなくなった。
 大地、この大地の話をしているはずだ。目の前に広がる海を見渡す。水面(ミナモ)はどこまでも平らだ。浜も……。
「馬鹿を申せ。この平たい地や海が玉だと?」
 ――からかうのもいい加減にしろ。何でも知っているからといって、この吾を愚弄するか!
 実朝は和卿の言うことに理解が追いつかず、腹立たしさすら湧いた。
「ては、ここから京の都が見えますかや? 宋は?」
「そ、それは山に隠れて見えぬのだろう」
「殿下は箱根の山に詣でたとか。山の向こうに京が見えましたかや?」
「見えなんだが、それは霧に霞んで……」
 言いながら、箱根の山から西方を眺めた記憶がよみがえる。
 ――晴れて、よく見通せた日もあった。それなのに……。
 たとえ見えなくとも地の極目の向こうに京の都があるのを信じて疑わなかった。
 ――地の極目? 地の極目とは何だ?
 自問自答しながら、実朝はこれまで信じて疑わなかったものが、波に洗われる砂山のように崩れてゆくような気がした。
「大地が玉のようになっているから見えぬのてござりますなり。殿下も私も大きな瓜にとりついた蟻のようなものなのてございますなり」
「信じられぬ……」
 まだ騙されているような気がした。だが、旅をしていて遠くにある山から先に見えてくる、という感覚はなんとなしにわかるような気がしてきた。
「瓜にとりついた蟻が這ってゆきますなり。そのままとんとん這ってゆくと、とうなりますや?」
「ふむ、ひと回りして、またもとの所にもどってくるな……」
 言ってから、実朝はぞっとするような大変なことに気づいてしまったような気がした。
「そうてす。そうてすなり」
 和卿は薄く笑って実朝を見つめてくる。
 ―そんな馬鹿な……。
「殿下が宋へ行かれて、西へ向かってゆくと西域へ出ますなり。そして、天竺も越えてとんとん西へ向かってゆきますと……」
 実朝の頭に、あるとんでもない光景が浮かぶ。
 ――そんな馬鹿なことが……。
「やがて東のほうから。この倭国へもどってくるのです」
 和卿はそう言うと、実朝から沖の水平線に目を移した。
 ――そんなことがあり得ようか……あるわけが……。
 あるわけがない。と思った後から、
 ――だが、もしかしたら……。
 もしそうだとしたら、こんな胸躍る愉快なことがあるだろうか。まだまだ到底信じられないままそう思った。そして和卿の布袋のような顔を見てつぶやいた。
「それにしても、そちは何でも知っておるのう」
「とんてもないなり。知らぬことばかりにございますなり。知れば知るほど次から次へと解らぬことが出てくるなり」
「そういうものか」
 わかるような気がした。
 この国では解らぬこと、不思議なことはすべて神仏や怨霊のせいにしてしまう。そうしなければ納まりがつかないからだ。その果てに、それらを忌み、畏れ、近づくことをやめてしまう。
 ――あの輝く羽衣のようになびく天空の大河もそうだ。
 実朝は齢十三のときに見たそれを思い出した。妖しく美しいと感じたそれを歌に詠み込んだ。だが師である定家卿に、不吉で邪悪なものは歌に詠むべきではないと諭された。不可解なことは不吉、凶兆。だから目をそらす。見てはならない。


「のう和卿。そちは赤気というものを知っているか」
「セ、セッキ、なるや?」
 実朝もどう言っていいやらわからなかったので、定家卿の使った言葉をそのまま言ってみたが、
「赤い気と書くのだが……」
 かつて実朝が感じたとおり羽衣、天空の大河という言葉を使って説明してみる。
「なるほと」
 和卿は少し考えるような顔をし、
「私は見たことはございませぬなり。しかれと、そのようなものについて記された書物を読んた憶えがございますなり」
 宋でもめったに見られるものではない。しかし似たような天空の異変について書かれていたという。
「そうか。それで、あれはいったい何なのだ」
「解りませぬなり」
 和卿が首を横にふるのを見て実朝はすこしがっかりした。が同時に、知ったかぶりでないことに少し安堵もする。
「されと、とうも日輪の黒蟻と関わりがあるのではないかとその書物には記されていたなり」
「なに、日輪の黒蟻?」
 実朝は陽の中で蠢く蟻を思い浮かべた。
「いえ、黒蟻とは申しましたなりや、生きた虫がいるわけてはありませぬなり」
 和卿が言うには、白金のように輝く陽の中にも黒蟻のような小さな黒い陰りがあって、それが年ごとに増えたり減ったりしているという。
「つまり殿下がご覧になったような天空の大河が現れた年は、日輪の黒蟻がとりわけ多いときであったと記されていたなり」
「して、その日輪の黒蟻と天空の大河、あの……」
 濃い桃色の羽衣がなびいて天空を流れてゆく光景が実朝の目に浮かぶ。
「それがどう関わっているのだ」
 妖しく、美しい、天空の不思議。実朝が胸の中に閉じ込めていたものが解き明かされるのだろうか。胸の中が沸き立つ。
「解りませぬなり」
 力が抜けたように和卿が首をふる。
「なんだ解らぬのか」
 沸き立った胸がすとんと落ちる。
「ただ、おそらく怨霊といった類のなすものてはないなり。物事はすべて関わりあって起きておりますなり。その関わりがとういうものか、今は解らなくとも、いつのときか誰(タレ)かが解き明かすなり」
 ――いつのときか……、誰かが……。
 実朝は和卿の言葉を胸の中でなぞる。すると、遥か彼方に光り輝くものが見えたような気がした。それはいつの日か手にとどくであろうもの……。
「そうだ、ならば地震(ナイ)はどうじゃ。宋にも地震はあるのか?」
 地震は、聖武天皇の叔父である長屋王(ナガヤノオオキミ)が謀反の罪で死んだため、怨霊となって起こす祟りと云われている。
「ナイ? ああ、大地の揺れのことなるや? いかにもありますなり」
「そうか、宋でもあるのだな」
 ――ならば長屋王の怨霊のせいというのもおかしな話だ。
 長屋王とて宋の民にまで怨念を知らしめようとは思うまい。
「地震(デイジャン)についてはイブン・シーナなる者が書いておりましたなり」
 和卿は回教徒(ムスリム)の学者イブン・シーナが、地震は地面の隆起が原因であると説いている書を読んだことがあるという。
「その、むすりむとは何だ?」
「そうてすな……」と和卿はいささか面倒くさそうな顔をした。
「西域の彼方に天竺がござますなり。そして、そのさらに西へ行きますと仏法とは異なる法(オシエ)を護る民がいるのにございますなり」
「なんと……、天竺よりもさらに西に、そのようなところがあるのか……」
 ―何ということだ……。
 未知の国のさらに彼方に、さらなる未知の国があるという。実朝にとっては気の遠くなるような話だった。地震のことはもうどこかへ飛んでしまっている。
「しかし、そちは、何でそんなことまで知っておるのだ」
 畏敬の念を通り越して不可思議なものを見ているような気がしてきた。
「宋には多くの書物があるのてす。そして私のような者にても手に入るなり」
「なぜ、そのようなことが……」
「ああ、その話をまだしてませんてしたなりや」
 宋には版で書を写し取る印刷という技(ワザ)があって同じ書物をたくさん作れるのだという。
「なぜ、そのようなことが……」
 なぜ、なぜ、なぜ……。実朝にとっては解らぬこと、知りたいことばかりだった。
「うーむ」
 和卿が面倒くさそうな顔をして腕を組む。もともと知らぬことが多い者に何かを説明するのは骨の折れるものだ。実朝もだんだん申し訳ない気がしてくる。
「この倭の国では手筆で書を写しますが、それてはひとつの書を写し取るのに大変な手間がかかりますなり」
 ――書を写すが大変なのは然るべきこと。
 実朝はうなずく。
「ても、この国にも刻印がありますなり」
 武家ではあまり使われることはないものの、京の公家が自署の証に印を押した書を実朝も目にしたことはある。
「つまり刻印をならべて文を作れば、多くの書をたやすく作ることがてきるなり」
「印を彫ってならべ、そうして文を作るのもそうとう骨が折れるであろうの」
「ても、それは一度きりの営みなり。ひとたび印版を作ってしまえば、写すのは印を押すごとく、いくらてもてきますなり」


 ――印を押すごとく。
 次々と書が写し取られてゆく様が実朝の目に浮かぶ。
 ――なるほど……。
 そうして多くの書が宋の国中に広まってゆく。和卿のように学びたいと思う者の手にはた易く届く。
 ――やはり宋とはたいした国だ。
 病の気。赤い気。この国では不可解なものを「気」という名の怨霊にしてしまう。だが宋という国では不可解なこと、不思議なことがあるのは然るべきこととして受け止め、忌み嫌うどころかその道理を探ろうとする。探って解らぬものは目をそらすのではなく、とりあえずそのまま置いておく、つまり玉手箱のようなもの。形の違う玉手箱がいくつもあるやもしれぬ。だが、いつか解き明かされるのを待ちつつ次を探る、という態度がある。和卿のように道理をふまえた考えをする者が多くいるのは、あらゆる異国から人や物が集まり、もろもろの知恵や技が溢れ、それらを記し、印刷という技をもって多くの書物が出回り、知りたい者、学びたいと思う者は誰でもそれを手にすることができるから……。そして未知の玉手箱は、誰かがひとつひとつ開けてゆく……。
 実朝は朽ち果てた大魚の躯のような唐船に目をやり、沖の水平線を眺める。そしてまだ見ぬ宋という広大な国を想った。

<つづく>

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