5.著作のこと

【連載小説】かつて、そこには竜がいた(3)

この記事は前回からの続きです。

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■前回までのあらすじ
 宮崎で幼少のころからサーフィンに明け暮れていた智志(サトシ)は、プロサーファーになったとたん、自身の人生はこのままで良いのかと悩みだす。テレビで災害救助に励む自衛隊員の姿を見て自衛隊員になろうと思い立ち、かつて海軍予科練に入隊した祖父に相談するが、なぜか色よい返事がなかった。
 大波サーフィンのメッカ、鎌倉稲村ヶ崎を訪ね、波待ちをしているとき、地元(ローカル)の裕二と知り合い、海底に何か蠢くものを見たような気がした。裕二によれば、戦後、進駐軍の兵隊たちが稲村でサーフィンしていて海底から竹槍で突かれたという都市伝説があるという。稲村ヶ崎の岸壁に洞窟があるのを見つけ、智志と裕二は探検しに入る。二人は洞窟の暗闇で、波乗りに明け暮れる生活について語り合い、しだいに打ち解ける。智志がプロサーファーでいることに疑問を抱き、自衛隊員になると話すと、裕二は、せっかくプロになったのに、と驚く。

  ***

「まあ、そりゃ波乗りはいいさ……」
 ため息をついてつぶやく。
 自衛隊に入ると言ったことで、裕二が驚くのはもっともだ。
 夜半過ぎに風の音がして目が覚める。遠い沖で、風が波を立てているだろう。荒れた波かもしれない。だが、長い距離を旅するようにやって来たうねりは、次第に滑らかな波に整ってゆく。岸に近づくと陸風に撫で上げられ、つるりとした波面が朝陽に光る。波乗りには最高の波。そんな情景を布団の中で夢想する。胸の中が疼く。朝が待ち遠しい。そう思いながらうとうとと心地よい眠りに落ちてゆく。そして翌朝、まだ日の昇る前の浜。足の裏の砂が冷たい。ボードを抱えて沖を見つめる。想像していたとおりのうねりが一線になって押し寄せてくる。やがて波頭が割れて波が巻く。沖に向かってゲッティングアウト。最初の波を越えたとき、冷たい波しぶきに顔を叩かれる。瞬間、今日の波乗りが始まる。
 そうやって一日が始まり、夕刻にもまだ波が残っていれば、オレンジ色の光に包まれながらもうひと乗り。


 切り立った波の薄くなったあたりから黄金色の陽が透けて見える。クリスタルに包まれたかのような至福の時。
そうやって海辺の一日が終わる……。



 智志が、想い描いたままのサーフィンライフをつぶやいていると、
「だよな。そんなんが最高だよな」
 裕二のため息まじりの声が響く。
「でも、それって、自分ひとりのこつじゃないか」
 親に育てられ、日々食べるものも、すべて多くの人の働きの賜物だ。自分はいったい何をしているのか。
 ――たったひとりの人にすら報いていない。
 ふと、あのときのことが目に浮かぶ。

「あ、起こしちゃった? どんげ、気分は悪っこせん?」
 薄暗がりの中で、残り少なくなった点滴液の袋に手をかけながら若い男の看護師が見下ろしてくる。マスクで顔半分は見えないが、真一なのはすぐにわかった。

「ああ、大丈夫。じゃけんど、こげん時間まで……」
 虫垂炎で入院したときの深夜のことだった。一ヶ月ほど前から下腹部が疼くように痛み出したが大会前だったので我慢していた。最終ラウンドで会心のカットバックを決めて優勝を手にしたが、トロフィーを受けながらその場でうずくまってしまった。すでに腹膜炎を併発していて救急車で病院に運び込まれたが、そこで中学の同級生、大牟田真一と再会した。勉強もスポーツもあまり目立たない少年で印象は薄かった。いや、いじめられているという噂を聞いたことがあった。
 その真一が看護師になったという。
「今日は夜勤やっつよ。また明け方くるけん、なんかあったらナースコールしてな」
 そう言って呼び出しボタンを枕元に引き寄せる。後頭部の髪の毛がタワシのように立っていた。寝癖だろう。仮眠をとっていたのかもしれない。ふと、幼いころ寝床で見上げた母親への感覚に似たものが胸にわいた。
 翌朝の検温の時間、
「どんげ? 調子は」
 そう言いながら体温計を差し出してくる。よく眠れた? 痛みはなかったか? 何気ないやり取りをしながら智志は脇に体温計を挟もうと寝衣の胸を開いた。と、そのとき、股間の男の先っぽに小さな痛みが走った。一瞬のことだったが、すでに真一はカテーテルをさっさと始末している。
「ごめんな。さあ外しますじー、なんて言ってからやると、患者さんも緊張して構えてしもっちょって、かえって痛いんだ」
 尿道留置カテーテルは手術後の痛みで尿が出なくなるのを防ぐためにする。陰茎の先からチューブを膀胱までさし込んで直接排尿させるもので、あまり気持のよいものではない。抜くときはさぞ痛いだろうな、と智志も不安に思っていた。それが今、ほんの一瞬小さな痛みはあったものの、すでに抜き取りは終っていて、いつもの自由な身にもどっていた。真一は掛け布団の裾を整えるようなそぶりをしながら中に手を入れ、智志が股間を触られたと気づく間もない早業で処置を成し遂げたのだった。
「ありがとな。でん、男に触られたん、俺、初めてちゃが」
 智志の照れ笑いに、ふっと小さな笑みを返し、カテーテルと尿タンクを下げて病室を出てゆく真一の背中が、とてつもなく眩しかった。優しさと逞しさを併せ持った英雄(ヒーロー)を見ているようだった。あの真一が……。

 ――それに比べて、いったい、俺は……。

「まあ、こんままでいいんかな、てのがあってさ」
 波乗りは、ごく個人の世界であって、その中にどっぷり漬かって生きていたいと思いながら、その一方で現実には社会の中で生き、生かされている自分がいて……。うまく説明できず歯痒かった。
 暗闇に向かって自分自身に語りかけるようにつぶやく。話しながら懐中電灯を持った手が揺れる、と、
「うん、ちょっとわかるな……俺も……」
 裕二が言いかけたのを無視し、懐中電灯で照らす的を絞る。岩肌が照らし出される中、岩肌でない暗黒の空間が浮かび上がる。
「おい、ここ、まだ続いちょるぞ」
 壁に突き当たって行き止まりと思っていた横に暗い穴が開いている。
「あ、ほんとだ」
 智志が立ち上がると裕二も腰をあげた。横穴の奥を照らしながら数歩入ると広い空間に出た。上下左右をぐるりと照らす。およそ八畳間ほどの四角く掘りぬかれた石室になっている。
「ここは……」
 裕二が呻く。
 智志は注意深く照らし回る。素掘りの削り跡があって平らな壁ではないが明らかに人の手で掘りぬかれた空間だ。ふと懐中電灯の光が何かを捕えた。壁の隅に何かが転がっている。狙いを定めて光をあてる。
「なんだそれ」
 裕二が背中から覗き込む。
「バケツかな」
 ブリキの小さなバケツのような……。あたりには崩落した岩石が転がっているが、そのブリキの物体は少なくとも人造のものに見える。
 近寄り、靴のつま先でそっと触れてみる。バケツ、というより円筒形の缶のような、だが、空き缶にしては金属板が分厚い。
 靴先で転がし、裏返す……と、円筒の側面に丸いガラス板がはまっている。土で汚れ、罅(ヒビ)が入っているが、直径15センチほどのガラスのはまった穴が分厚い缶の側面に開いていた。
「こりゃバケツじゃあんぞ」
 智志の脳裏にひそんでいたある物のイメージと繋がった。
「やっぱり、ここは」
 無意識につぶやきながらもういちど石室内を見回した。
 ―祖父が話してくれたあそこに違いない……。


「自衛官、か……」
 祖父がため息をついてつぶやいた。
 海軍の予科練に入った祖父ならきっと解ってくれる。そう思って祖父に相談したあの時が再びよみがえる。
「じゃあか」
 そう言ったまま、しばらく絶句する。
「じゃったら話しておかねばならんな」
 祖父は、重い口を引き摺るように話し始めた。
「関東大震災のときも、軍隊は災害救助で大活躍したつげな」
 警察も消防も初動の混乱でうまく機能しなかったのに帝国陸海軍は統制のとれた行動で、国民からも、やはり軍は頼りになるともてはやされたという。当時は、第一次世界大戦を経て世界は軍縮の方向にあったが、日本の軍部は震災対応の成功もあって発言権を強め、新聞もそれに与する風潮があったという。
「おいも若いころは何としても国を守りたいと思っちょったからな」
 そのころの想いを吐露する。そして、遠い記憶に想いを馳せるような目をした。
「グォーンちゅう唸るごつな轟音が空から降ってきちょった」

     *


 旧制中学を卒業して予科練の採用通知書を手にした長友吉次郎は土浦海軍航空隊と書かれた門の前に立ち、空を見上げた。目に染みるような青空を背景に銀色に光る物体が移動してゆく。飛行機とすぐにわかった。編隊を組んで飛んでゆく。日本海軍の九三式中間練習機、二枚翼(バネ)の通称「赤トンボ」だ。
「はよあれに乗りたい」
 予科練は飛行搭乗員としての基礎を学ぶ海軍の学校ではあったが、そこへ入ること、つまり入学はすなわち海軍航空隊に入隊することだった。
 吉次郎は胸を膨らませて門をくぐり土浦海軍航空隊甲種第十四期飛行予科練習生として入隊した。

「七つボタンといってな」
 濃紺の第一種軍装より真っ白な夏用の第二種軍装に人気があったという。
「あれに憧れて入った連中もいたじ。じゃがな……」
 吉次郎は微かに苦いものを舐めたような顔で遠い目をした。

「総員、吊り床降ろせー!」
 就寝前の兵舎。棍棒を床について怒鳴る男がいる。その班長の号令で一斉にハンモックを吊る。軍艦では水兵の寝床はハンモックだが、日本海軍は陸上でも兵の寝床はハンモックだ。班長の持つ棒には〈軍人精神注入棒〉という文字が入っている。
「吊り床収めー!」
 その号令で今度はハンモックをたたむ作業に入る。たたんでロープで括る。少しでも毛布がはみ出ているとやり直しを命じられる。そしてまた「吊り床降ろせー!」。
 釣床降ろしが十八秒以内、釣床収めが四十五秒以内に収まるまで釣り床訓練は続く。その繰り返しで、就寝前だというのにみな汗だくだ。
「もたもたすんなー!」
 班長の罵声が飛ぶ。
「よし、総員廊下に整れーつ!」
 班の中に一人でも遅い者がいると全員が罰を受ける。
 ―ああ、これがあのバッターというやつか。
 吉次郎は覚悟した。

「両手をあげて足を開けー!」
 整列した端のほうから尻を叩く音が響いてくる。その音がしだいに近づいてくる。
「よし、次!」
 いよいよ吉次郎の番だ。バシッという音とともに尻の肉から骨盤をとおして背筋まで衝撃が伝わってくる。一発目は覚悟して気合を入れたので痛みを跳ね返すことができたかに思えた、が、二発目は一発目の痛みが抜けないまま倍増し、つい喉の奥から呻き声がもれた。
 ここは軍隊だ。噂にも聞いていたし覚悟はできている。この痛み、厳しさに耐えてこそ、いつかあの二枚翼に乗れる。そしていつかは零戦に……。
 海軍省の甲種飛行予科練習生を募集するポスター。そこには翼を斜めに傾け、こちらに向かって飛び出してくる戦闘機が描かれていた。それが日本海軍の誇る最新型戦闘機、零戦だった。それを見て吉次郎は予科練に入る決心をしたのだ。

 外敵から日本を守るため。そのために俺は戦闘機乗りになる。日本という国、いや、国というより父、母、兄弟、郷土の人々を敵から守る。誰かがそれをやらねばならないなら自分がやろう。七つボタン、真っ白な第二種軍装、零戦、それらへの憧れはあったが、それは守りたい人たちがいるからこそ、その気持を象徴するものでしかなかった。
 予科練は飛行搭乗員としての基礎を学ぶ学校であって、その二年間、実際の飛行機に乗る訓練はない。みな予科練を卒業したあとの飛行練習生となる夢を胸に数学、物理からモールス信号の習得といった課業に励む。教室の窓の外からエンジンの轟音が聞こえてくると、みな教壇に顔を向けたまま目線と心は外に向いてゆく。
 ――あの音は九三式中間練習機だな。
 つまり赤トンボ。あるいは、
 ――下駄を履いているぞ。あれは九三式中間水上機だ。
 赤トンボにソリのような浮きを履かせた水上練習機だ。
 課業に集中しないと教員は厳しく叱る。だが、飛行機への憧れにだけはどの教員も甘く、見て見ぬふりをしていた。
 ようやく二年間の予科練を卒業すると、いよいよ飛行練習生として各地の航空隊に配属された。
 だが……。
 配属となってすぐの時だった。飛練生の全員に総員整列がかかった。分隊長が演壇に立つ。そして……。

つづく
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