この記事は、ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(5)からの続きです。
訪れたのは大仏(高徳院)だった
ラフカディオ・ハーンの鎌倉・江の島めぐりの推定ルート
円応寺を後にしたハーンが、次に『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』に書いているのは、鶴岡八幡宮ではなく、大仏(高徳院)でした。
1870年の大仏(メトロポリタン美術館蔵(著作権フリー))
ハーンが訪れる20年前の写真。まだ髷を結った人が大仏様の手に?
写真撮影のためにポーズをとらされているようにも見えます。
大仏と対面するハーン
You do not see the Dai-Butsu as you enter the grounds of his long-vanished temple, and proceed along a paved path across stretches of lawn; great trees hide him. But very suddenly, at a turn, he comes into full view and you start! No matter how many photographs of the colossus you may have already seen, this first vision of the reality is an astonishment. Then you imagine that you are already too near, though the image is at least a hundred yards away. As for me, I retire at once thirty or forty yards back, to get a better view. And the jinricksha man runs after me, laughing and gesticulating, thinking that I imagine the image alive and am afraid of it.
長い間消滅したままになっていた寺院(注1)の敷地に入り、芝生の広がる舗装された道に沿って進むも、まだ大仏は見えない。(大仏は)大きな木に隠れている。ところが、角を曲がると、突然、彼(大仏)の全身が現れる。その巨像の写真を、すでに何度も見たことがある人でも、この実際に対面したときの光景には驚くことだろう。そして、それが少なくとも 100 ヤード(約91m)離れているにもかかわらず、まだまだ近過ぎると感じるだろう。そこで私は、もっとよく見えるように、もう30 ヤードか 40 ヤード後ろに下がってみた。そうしたら、人力車の俥夫は、私が大仏を生きているものと思って怖がったのだと思ったらしく、笑いころげながら私の後を追いかけてきた。
注1:「高徳院」には堂塔が無く、その院号は江戸時代以降に冠することになったが、それ以前の寺院、堂塔の存在についても不詳。長い間、大仏の像だけが露天で存立している。
「芝生の広がる舗装された道に沿って進むも、まだ大仏は見えない」
と、ハーンは書いていますが、日本で芝生が使われるようになったのは大正時代以降なので、おそらく苔か雑草ではないかと思います。現在は砂利が敷かれています。
角を曲がると、突然……。
「で、でかい……」(;^_^A
巨大な像に怖じ気づいた……わけじゃないんです。
大仏を見上げたハーンは、近すぎるので、少し下がって見ようと思ったのが、怖がっていると、俥夫に勘違いされた笑い話ですね。俥夫にしてみれば、紳士然とした西洋人の腰の引けた姿が滑稽に見えたのでしょう。ほほ笑ましい情景が目に浮かびますね。
大仏様は、今も鎌倉観光の人気スポット。
大仏は美男?
But, even were that shape alive, none could be afraid of it. The gentleness, the dreamy passionlessness of those features,—the immense repose of the whole figure—are full of beauty and charm. And, contrary to all expectation, the nearer you approach the giant Buddha, the greater this charm becomes.(以下略)
しかし、たとえその像が生きていたとしても、それを恐れることはない。この優しさ、夢見るような情熱の無さ(無心の境地?)、全体に漂う無限の安らぎという特性は、美しさと魅力に満ちている。そして、意外なことに、大仏に近づけば近づくほど、その魅力は大きくなるのだ。(以下略)
「the dreamy passionlessness」という表現は西洋には、あまりないのではないでしょうか。どちらかといえば「情熱」を賛美するような西洋世界にあって、ハーンは「無情熱」なる言葉で、静寂で透明な東洋の美を表現しようとしたのだと思います。(easyに言えば「お、クールだねぇ」? いや、ちょっとチャウか。(;^_^A))
以降、ハーンは、ひたすら大仏の美しさ、魅力、美顔への賛辞を重ねます。しかし、私は(お顔に関しては)「それほどだろうか?」などと思ってしまうのですが、ここで思い出されるのが、与謝野晶子の歌「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」です。
与謝野晶子の歌碑は、大仏様の背後の木立の中に、ひっそりと佇んでいます。
ここからだと、大仏様のお顔は見えんなぁ……。
「the dreamy passionlessness」?
う~ん、見る人が見れば「美しい」のだろうか。
この鎌倉大仏は、一般的には「阿弥陀仏」と云われているのですが、与謝野晶子は「釈迦牟尼は美男におはす」と釈迦仏(釈迦如来)として歌っており、これが誤り云々の議論にもなっています。一方で、それなりの理由から「鎌倉大仏は阿弥陀仏ではなく釈迦仏ではないか」という説を唱える人もおります(私の友人にもおります)。ハーンは「Buddha(仏陀)」とだけ言っており、釈迦、阿弥陀仏に言及していないので、ここではその問題は置いておき、別ページで論じることとします。
➡ 鎌倉大仏は阿弥陀仏か? 釈迦仏か?
大仏の胎内くぐり
Through an orifice in the right side of the enormous lotus-blossom on which the Buddha is seated, you can enter into the statue. The interior contains a little shrine of Kwannon, and a statue of the priest Yuten, and a stone tablet bearing in Chinese characters the sacred formula, Namu Amida Butsu.
A ladder enables the pilgrim to ascend into the interior of the colossus as high as the shoulders, in which are two little windows commanding a wide prospect of the grounds;
仏陀が座っている巨大な蓮の花の右側にある開口部を通って仏像の中に入ることができる。内部には小さな観音堂と祐天和尚の像、そして聖なる公式(念仏のことか?)「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれた石碑がある。
内部を巡礼する(胎内巡りする)者は、はしごを登って、巨像の内部の肩の高さまで上がることができ、そこには境内を一望できる二つの小さな窓がある。
「仏陀が座っている巨大な蓮の花」が無いと思ったら、取り外された「蓮の花びら」が台座の後ろに並べられてありました。本ページトップの1870年の写真にも蓮の花は無いので、ハーンの訪れた1890年までの間に取り付けられ、その後、また外されたのか?
胎内への入口
体内の天井の方に大きな穴が見えます。ここが大仏様の頭に繋がる首。頭の中に「小さな観音堂」、「南無阿弥陀仏の文字が刻まれた石碑?」がある(あった?)らしいのですが、現在は安全上ハシゴが取り外されていて、登って見ることができません。
大仏様の肩の位置に空いた窓。ここもハシゴが外されていて、登ることは出来ませんでした。
外側から見た窓。かつてハーンは、この窓から外を覗いて境内を眺めたのでしょうか。
ハーンが訪れた時から現在までの間に関東大震災があり、鎌倉の街や寺院の姿も変貌しているので、こうしてハーンが見た物と同じものを間近で見ることができるのは貴重です。
大仏はいつ造られたのか?
while a priest, who acts as guide, states the age of the statue to be six hundred and thirty years, and asks for some small contribution to aid in the erection of a new temple to shelter it from the weather.
For this Buddha once had a temple. A tidal wave following an earthquake swept walls and roof away, but left the mighty Amida unmoved, still meditating upon his lotus.
一方、案内役の僧侶は、この像の年齢は630歳であると言い、「像を風雨から守る新しい大仏殿の建造のため、僅かばかりの寄付をお願いします」と言った。
この仏陀にはかつて寺院(堂(大仏殿))があった。それがある時、地震に続く高波(津波)が壁や屋根を押し流してしまったが、力強い阿弥陀仏は動じることなく、今もこうして蓮華の座で瞑想を続けている。
この記述によって、ハーンは、(あくまで伝聞として)鎌倉大仏の成立経緯をさらりと紹介し、津波で大仏殿が押し流されてしまったと書いていますが、大仏の歴史を探ってゆくと、なかなか一筋縄ではいきません。まず、大仏の造立について、
『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の里にて僧、浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、寛元元年(1243年)に、八丈余の阿弥陀像を安じ、開眼供養が行われた、としています。
また、『東関紀行』(作者は諸説あるも不詳)には、仁治3年(1242年)に大仏殿を訪れた記述があり、その時点では大仏と大仏殿が三分の二ほど完成しており、大仏が木造であったと記しています。
『吾妻鏡』の宝治元年(1247年)年9月1日の条に、大風があって、仏閣・人家多く顛倒・破損す、という記述があり、
『吾妻鏡』の建長4年(1252年)八月十七日に、深沢の里にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事があります。
※以上の『吾妻鏡』の原文はコチラ
『東関紀行』の原文はコチラ
以上の史料を関連づけて見てゆくと、最初(暦仁元年(1238年))は木造の大仏が造られ、大仏殿もあったが、宝治元年(1247年)の大風で倒壊した可能性があり(推測)、改めて建長4年(1252年)に金銅(銅に金メッキしたもの?)の大仏を造立した、というように読み取れ(推測でき)ます。しかし、『吾妻鏡』の「金銅八丈の釈迦如来像」との記述が、やや腑に落ちません。現在の鎌倉大仏の高さは11.39mですが、1丈は約3mですから、八丈は約24mと二倍の高さとなり、同一物かどうか疑問は残ります。しかし、ハーンを案内した僧侶が「この像の年齢は630歳」と言ったのは、当時は1890年ですから、『吾妻鏡』の建長4年(1252年)に、大仏の造立が開始されたとの記事とほぼ一致しており、案内の僧は、この『吾妻鏡』を基に説明したのでしょう。
現在の大仏は緑青(銅の錆)に覆われて青緑色をしていますが、創建当時は「金銅」なので金のメッキが施されていたはず。その名残がお顔の目尻からこめかみあたりに、うっすらと残っています。
大仏はいつから雨ざらしになったのか?
これも文献からは、確かなことは分かっていません。
前述の通り、暦仁元年(1238年)、深沢の里にて僧、浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が開始……、となっているので当初は大仏殿が建っていたようです。
『鎌倉攬勝考(かまくららんしょうこう)』(『新編鎌倉志』の増補版)には、『太平記』からの引用として、建武二年(1335年)八月三日に大風が吹き、相模次郎時行の軍兵が、大風を避けるため、大仏殿の中に避難したが、大仏殿が倒れ、五百余人の軍兵は全て打たれ死んだ、との記述(原文はコチラ)があるので、この時に大仏殿は倒壊したのかもしれません。また、『鎌倉大日記』という文献には、「明応四乙卯八月十五日、大地震、洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。現代語に訳すと、「明応四年八月十五日(1495年9月3日)、大地震と洪水があった。鎌倉由比ヶ浜の海水が千度壇にまで来た。水の勢いで大仏殿の堂舎屋を破った。溺死人は二百名あまり」となります。じつは、この『鎌倉大日記』の情報から、かつて大仏殿が押し流されるほどの津波が起きたと推定し、それを考慮して「神奈川県の津波浸水予測図」も作られたとのことです(神奈川県温泉地学研究所観測だより第 63 号) しかし、『鎌倉大日記』は治承四年(1180年)年から天文八年 (1539年) に、主に東国で起きた出来事を年表形式で記した書物ですが、筆者は不明で、書かれている期間(359年間)からして、伝聞を基に、それぞれの時代の人が書き加えてきたような文献ですので、信憑性はそれほど高くないでしょう。
これはイメージです。Bing Image Creator (AI)により作成
一方、万里集九(ばんりしゅうく)という禅僧が書いた『梅花無尽蔵』という書物には、明応四年の9年前にあたる文明十八年十月二十四日(1486年11月20日)に、大仏を訪れ「遂見長谷観音之古道場、相去数百歩、而両山之間、逢銅大仏仏長七八丈、腹中空洞、応容数百人背後有穴、脱鞋入腹、僉云、此中往々博奕者白昼呼五白之処也。無堂宇而露坐突兀」とあり、現代語訳すると、「長谷観音の古い道場を見て、数百歩行くと、二つの山の間にある銅の大仏に逢う。高さは7〜8丈。腹の中は空洞になっていて、数百人(百人?)は入れる。後ろに穴があって、わらじを脱いで腹の中に入る。聞いたところでは、この中に往々にして、ばくち打ちが昼日中からいて、賭博(?)をしている。お堂は無くて、露座である」となる。「呼五白之処也」の意味が賭博かどうか解りませんが、万里集九が鎌倉の大仏を訪れた時には、すでに「堂は無く露座」だったと書いています。『梅花無尽蔵』は万里集九という禅僧が、自身で見た経験を綴ったものなので信憑性は高く、少なくとも、この時(1486年)迄には大仏殿は無くなっていたと考えられます。(それにしても仏像の中で博打とは、ふとどきというか面白いというか……)
鎌倉は中世の闇の中……
ここまで書いてきて、私(当ブログ筆者)も、いささか匙を投げたくなります。鎌倉の歴史は、京都や奈良と比べても、わかっていないことが、じつに多いのです。(鎌倉幕府跡ですら、土の中に眠ったまま、発掘できていないのですから、そんなんで世界遺産登録がドッタラコッタラとは聞いてナンチャラカンチャラ・・・チャンチャラ△○×・・・(私の独り言ですので、お聞き逃しください)
ハーンが、さらりと紹介した鎌倉大仏の成立経緯も、裏を取りに行くと、とたんに迷路に迷い込んでしまいます。しかし、だからこそ、その闇の部分を推理しながら解明しゆく小説の出番は多くなるはず、と私も気を取り直して小説を書き続ける所存です。ハイ
これはイメージです Bing Image Creator(AI) により作成
たしかなことは、ハーンが案内役の僧から「大仏様を風雨から守る新しい大仏殿の建造のための寄付」を求められてから130年以上経った今も、鎌倉の大仏様は、雨にも負けず、風にも負けず、ただひとり露天に座り、瞑想(meditating)を続けているのであります。合掌
取材を終えて……
さて、取材はいつも昼前に終えることにしているので、いつものように……。
もし、取材のアフターにもお付き合いいただけるなら、コチラもご覧ください。
さて、次回(7)は、「長谷寺」です。(公開中)
■ラフカディオ・ハーン来日の秘話を描いた小説『ラフカディオの旅』はコチラ