1.鎌倉のこと

ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(7)― 長谷寺 ―

この記事は、ラフカディオ・ハーンの見た鎌倉(6)からの続きです。


ラフカディオ・ハーンの鎌倉・江の島めぐりの推定ルート

観音の寺(temple of Kwannon)

ハーンが、大仏(高徳院)の記述の次にGlimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』に書いているのは、「観音の寺」でした。

And we arrive before the far-famed Kamakura temple of Kwannon—Kwannon, who yielded up her right to the Eternal Peace that she might save the souls of men, and renounced Nirvana to suffer with humanity for other myriad million ages—Kwannon, the Goddess of Pity and of Mercy.(以下略)

そして私たちは、鎌倉の有名な観音の寺の前に到着した。観音は人々の魂を救うために永遠の平穏への権利を放棄し、涅槃をも放棄して、無数の時代に現れて、人々ととも苦しむことになった。それが、憐れみと慈悲の女神、観音なのだ。(以下略)

「観音の寺」とは、おそらく長谷寺(海光山慈照院長谷寺)のことでしょう。ハーンは観音のことをGoddess(女神)と言ってますが、観世音菩薩は男でも女でもない、性別を超えた存在ですが、人の想いによって女にも男にもなり得るという意味では、ハーンが女神だと思えば、それはそれでも良いのかもしれません。
続く記述では、本堂の暗がりの奥に、巨大な観音像が、しだいに姿を現し、その美しさと荘厳な姿に感動し、ハーン特有の流麗な多くの言葉を重ねて(長い文章で)十一面観音像を描写してゆきますが、ここでは除きます。


明治時代の長谷寺へ向かう参道
丘の中腹に見える屋根が本堂(観音堂)
ハーンとアキラは、この道を人力車で向かったはずです。


現在の長谷寺へ向かう参道
丘の中腹の生い茂った木立の影から、わずかに本堂の屋根がのぞいていますが、明治時代とは形が違いますね。


明治時代の長谷寺本堂の絵はがき
屋根は茅葺きです。


関東大震災で倒壊した長谷寺本堂(鎌倉中央図書館蔵)
ハーンが見た長谷寺本堂は、この時に無くなりました。(現在、スマホでは、この「関東大震災で倒壊した長谷寺本堂」の写真が見られない現象が起きており、調査中です)


現在の長谷寺本堂は瓦葺きに改築されています。
本堂の裏山には、たくさんの紫陽花が植えられ、今では紫陽花の名所の一つ。梅雨の季節には拝観客を入場規制するほどの賑わいです。


十一面観音菩薩像(木造 高さ9.18m)
当寺のご本尊。多くの伝説と謎に包まれながら、ただ無言で虚空を見つめ続けておられます。


長谷寺境内からの眺め。山号の「海光山」は、この景色で納得!
ハーンもこの景色を眺めたのでしょうか……。そう想うと感慨深いものがあります。
あなたは、なぜ日本に来、そして骨を埋めることになったのか。私は、これから、それを解き明かしてゆきます。(と、『ラフカディオの旅』への決意を誓うのでありました)

観音像の伝説

ハーンは、観音像の伝説(縁起)について、次のように書いています。

Most sacred this statue is held; and this is its legend.

In the reign of Emperor Gensei, there lived in the province of Yamato a Buddhist priest, Tokudo Shonin, who had been in a previous birth Hold Bosatsu, but had been reborn among common men to save their souls. Now at that time, in a valley in Yamato, Tokudo Shonin, walking by night, saw a wonderful radiance; and going toward it found that it came from the trunk of a great fallen tree, a kusunoki, or camphor-tree. A delicious perfume came from the tree, and the shining of it was like the shining of the moon. And by these signs Tokudo Shonin knew that the wood was holy; and he bethought him that he should have the statue of Kwannon carved from it. And he recited a sutra, and repeated the Nenbutsu, praying for inspiration; and even while he prayed there came and stood before him an aged man and an aged woman; and these said to him, ‘We know that your desire is to have the image of Kwannon-Sama carved from this tree with the help of Heaven; continue therefore, to pray, and we shall carve the statue.’

And Tokudo Shonin did as they bade him; and he saw them easily split the vast trunk into two equal parts, and begin to carve each of the parts into an image. And he saw them so labour for three days; and on the third day the work was done—and he saw the two marvellous statues of Kwannon made perfect before him. And he said to the strangers: ‘Tell me, I pray you, by what names you are known.’ Then the old man answered: ‘I am Kasuga Myojin.’ And the woman answered: ‘I am called Ten-sho-ko-dai-jin; I am the Goddess of the Sun.’ And as they spoke both became transfigured and ascended to heaven and vanished from the sight of Tokudo Shonin.

And the Emperor, hearing of these happenings, sent his representative to Yamato to make offerings, and to have a temple built. Also the great priest, Gyogi-Bosatsu, came and consecrated the images, and dedicated the temple which by order of the Emperor was built. And one of the statues he placed in the temple, enshrining it, and commanding it: ‘Stay thou here always to save all living creatures!’ But the other statue he cast into the sea, saying to it: ‘Go thou whithersoever it is best, to save all the living.’

Now the statue floated to Kamakura. And there arriving by night it shed a great radiance all about it as if there were sunshine upon the sea; and the fishermen of Kamakura were awakened by the great light; and they went out in boats, and found the statue floating and brought it to shore. And the Emperor ordered that a temple should be built for it, the temple called Shin-haseidera, on the mountain called Kaiko-San, at Kamakura.


この像は最も神聖なものとして祀られている。そして、その伝説は次の通りだ。

元正天皇の御代(680~748年)、大和の国に徳道上人という僧侶が住んでいた。徳道上人は、前世は菩薩だったが、庶民の魂を救うために生まれ変わったのだった。さてその頃、徳道上人は、大和の谷で、夜道を歩いていて、素晴らしく輝くものを見つけた。

近づいてみると、それは大きなクスノキの倒木で、その幹から光が出ていることが分かった。木からは、とても良い香りが漂い、その輝きはまるで月光のようだった。そして、徳道上人はこれらの特徴から、その木が神聖なものであると分かった。そこで彼は、その木で観音像を彫ってもらいたいと思った。そしてお経を唱え、念仏を唱え、霊験あらたかになるよう祈った。そうして彼が祈っていると、年老いた男性と年老いた女性がやって来て彼の前に立って言った。「私たちは、あなたのご希望が、天の助けを借りてこの木から観音様の像を彫ることであることをよくわかっています。だから、祈り続けなさい。そうすれば私たちは像を彫りましょう。」

徳道上人は言われたとおりにした。彼は、彼らが大な幹を、簡単に二つに分割し、それぞれを(観音に)見立てて彫刻し始めるのを見た。そして彼は彼らが三日間​​とても苦労しているのを見ていた。そして三日目に作業が終わると、完璧に仕上げられた二体の素晴らしい観音像が出来上がっていた。

そして彼は見知らぬ年老いた男女に言った、「お願いです。どうか、さぞご高名なあなた方のお名前を教えてください」 すると老人は「私は春日明神です」と答え、老女は「私は太陽の女神、天照仰皇大神です」と答えた。そして、そう言うやいなや、二人は姿を変えて天に昇ってゆき、徳道上人の前から消えてしまったのだった。

そして、これらの出来事を聞いた天皇は、使者を大和に遣わし、供物を捧げさせ、神殿を建てさせた。また、行基菩薩という大僧正が来て像を開眼供養し、天皇の勅願により建立された寺院で法会の儀式を執り行った。そして、彫像の一つを寺に安置し、「生きとし生けるものすべてを救うため、あなたは常にここにいなされ!」と命じた。しかし、もう一つの像は海に投げ込み、こう言った。「生きとし生けるものすべてを救うために、どこへでも行きなされ」と。

その(片方の)像は鎌倉に流れてきた。そして夜にそこに漂着すると、あたかも海の上に太陽が昇ったかのように、その周囲に大いなる輝きを放った。鎌倉の漁師たちは、その大いなる光によって目を覚まし、小舟で出ていき、像が浮かんでいるのを見つけて岸に運んだ。

そして天皇は、その像のため、鎌倉の海光山という山に新長谷寺という寺院を建てるよう命じたのだった。

注:ハーンは、アメリカでの新聞記者時代、記事の挿絵まで自分で描いてしまう絵の才能も持った人でしたが、この伝説の絵は残していないので、文中の挿絵はAI(Bing Image Creator)を使って作成しました。

伝説(this is its legend)の出典は何か?

現在の鎌倉長谷寺の十一面観音菩薩像は、幾たびもの修復の跡があり、江戸時代には大規模な改修作業が行われましたが、室町時代の部材も認められることから、造立は不詳ながら室町時代にまでは遡るものの、それ以前のことは分かっていません。寺自体の創建についても確かな記録は残っておらず、この寺の由来も(またしても)中世の闇の中にあります。実際の寺や像の歴史はさておき、私は、観音像の伝説が、どような形で残っているのか知りたいと思いました。

ハーンが伝説(this is its legend)を、どこから仕入れたかは不明(少なくとも『Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)』に出典等は書かれていない)ですが、私が調べた限りの「鎌倉の」長谷寺に関する縁起の類としては、もっとも解りやすく、よくまとまっていると思います。鎌倉長谷寺所蔵の「長谷寺縁起文」(鎌倉市指定文化財)という文献がありますが(私の知る限りでは)全文が公開されていないので、その内容ははっきりとは分かりません。
その一部はコチラ長谷寺縁起文(鎌倉市指定文化財)

一方、「長谷寺縁起絵巻」(神奈川県指定文化財)という絵巻物が、鎌倉長谷寺に所蔵されており、大和の国の徳道上人が十一面観音を造立し、行基によって開眼供養が行われたことなどが描かれていますが、残念ながら、上・中・下巻の内、下巻が欠落しており、「二体の観音像が彫られた」とか「観音像の一体が鎌倉に流れ着いた」という辺りについては、下巻に描かれているのかどうかも含めて分かりません。

長谷寺縁起絵巻(神奈川県指定文化財)

「長谷寺」と名の付く寺院は、日本全国に多くありますが、ルーツ(最初に起きた寺)は大和(奈良)の長谷寺でしょう。(その「大和の国長谷寺縁起」はコチラ大和の国長谷寺縁起 )
しかし「大和の国長谷寺縁起」(「今昔物語」を元にしたもの?)にも「二体の像を造ったこと」や「一体を海に流したこと」等は書かれていません。

また、新編鎌倉志には「(観音像が)大和の長谷より洪水で馬入(現在の平塚)に流れてきたのを(極楽寺の)忍性と大江広元が、現在の場所に移した」などという怪しい説。また「和州(大和)長谷の観音と、この(鎌倉の)観音は一本の楠にて作れり」という興味深い説も記されているものの、出処は「伝」(言い伝え?)としています。(原文コチラ新編鎌倉志』の長谷寺記述
 ※晩年は盲目になっていた大江広元が亡くなったのは1225年。忍性が大和で生まれたのは1217年ですから、8歳になる以前の忍性と、体の自由が効かなくなっていたころの広元ととの所業とするには無理があります(忍性が坂東に来たには35歳の時とされている)。しかし、忍性の極楽寺は、盛時には、現在の長谷寺の立地と隣接(あるいは包含?)しており、長谷寺の草創期に、大和からやってきた忍性が関わった可能性はあり得ると(私は)思います。

いずれにしても、どうもすっきりしないまま、長谷寺を訪ね、当寺付属の博物館「観音ミュージアム」の学芸員さんにお聞きしたところ、鎌倉長谷寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』と『相州鎌倉観音大士記』という古文書があるとのこと。これらは江戸時代に観音像の修復にあたった弁秋という僧侶が、それまで口承伝説でしかなかった観音像の伝説を文書記録として残したものだそうで、これに、「大和・鎌倉両観音大像が同木であること」、「長谷観音は、大和で造立された後、海に投ぜられ、天平八年(736年)六月十八日三浦郡長井浦に漂着した」ことなどが記されている(あくまで、それまで口承でしかなかったことを文書に記録したまでですが)、とのことでした。詳細はコチラ縁起に関わる資料について(未完成ですが資料の写真はあります)

ラフカディオ・ハーンから小泉八雲へ

さて、ハーンの鎌倉長谷寺伝説(this is its legend)の出典をつきとめたいと思っていた私は、いまだすっきりしないままなのですが、彼の鎌倉長谷寺伝説(this is its legend)が、とてもすっきりとまとまった物語なのは、おそらく(私が想像する限り)、前述した諸文献を知る当時(明治時代)の僧侶が、通訳のアキラを通して解りやすく説明したもので、その説明には、その僧侶の解釈や辻褄合わせが加味されていたかもしれず、さらにハーンの理解、解釈が加わって「this is its legend」が出来上がったのかもしれません。それほど「辻褄が合っていて、解りやすい物語」になっていると私は感じました。ハーンは来日以前のアメリカや西インド諸島で、クレオール文化やブードゥー教に関する民話、伝承を採集し、記録しています。この、鎌倉長谷寺伝説も、そういった民俗学的作業のひとつと見ることもでき、となれば、ハーンの解釈、脚色が加えられ、物語風に仕立てられた可能性は考えられます。伝承や巷の昔話を発掘(ヒアリング)し、ハーン独自の解釈、脚色を経て、あの『怪談(KWAIDAN)』を始めとする小泉八雲の作品(再話文学)が生まれたことを考えると、鎌倉長谷寺伝説も、小泉八雲の世界へ繋がってゆく助走だったのかもしれません。

以上、「可能性」、「かもしれません」ばかりで大変申し訳ございません。研究者でもない、ただの小説書きの戯文とお許しください。


ゴンボ・ゼーブ
ハーンがニューオーリンズ、仏領西インドのクレオールの諺(ことわざ)を集め、仏語訳と英語訳を施した著作。


仏領西インドの二年間(Two Years in the French West Indies.)』
ハーンが西インド諸島で二年間過ごしたときの紀行文と民俗採集の記録。


怪談(KWAIDAN)
ハーンの日本での作品。中学、高校の英語の教科書にも載っていましたね。

アフター取材におつきあいいただける方はコチラ

次回(8)は、「極楽寺坂切通し(公開中)

■ラフカディオ・ハーンは、なぜ小泉八雲となり、日本に骨を埋めたのか?
 『ラフカディオの旅』は、その謎を解き明かしてゆきます。

 

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