はじめに
片瀬の海岸から江の島に架かる弁天橋には、かつておでんの屋台が、ずらりと並んでいました。日が西に傾くと、茅ヶ崎の烏帽子岩から片瀬の海が黄金色に輝き、やがて夕闇がせまるころ、赤い提灯の灯がぼんやりと燈ります。島の頂に立つ、かつては尖がっていた展望灯台の灯と相まって夜の島影が浮かび上がります。釣り帰りの人、湘南港のヨットマン、観光帰りの人々が行き交う弁天橋。潮風に混じって、おでんの煮える匂いやサザエの貝殻の焼ける匂いが漂い、それに惹かれて暖簾をくぐった方もおられることでしょう。わたしもその一人ですが、失われつつある屋台の風情、おでんの味もさることながら、そこで出会った人々とのこと、そして身元を明かすことはできないけれど、ぜひ多くの人に知っていただきたいお話が、砂に描いた絵のように消えてなくなってしまう前に書き留めておきたいと思いました。
すでに、わたしの小説のいくつかには、それらの逸話がモチーフとなっている作品もあります。ですから、この『江の島弁天橋屋台の灯』でご紹介するお話と重なるところもありますが、こちらがオリジナルです。つまり本書は、森園知生の作品のエピソードⅠということになります。
(以上、『江の島弁天橋屋台の灯』「はじめに」より)
(藤沢市文書館提供)
屋台で出会った人々の数奇なお話
生きた幽霊
おでん屋台「磯花」では、いつもカウンターの一番端で静かに飲んでいる佐藤さん。背筋がしゃんとしていると思ったら、かつて海軍兵学校を出た元軍人だという。太平洋戦争末期には人間魚雷回天に搭乗して敵艦に特攻……。回天で出撃した搭乗員で生きて還った人はいないと話す。では、佐藤さんはどうして……。
人間魚雷「回天」は潜水艦に搭載されて出陣していった。
魚雷を改造して有人操縦にした「回天」は停止も逆走もできない。ひとたび発進したら……。
江の島ヨットハーバー
江の島東浦の漁師だった源蔵さんは、ふだん口数が少ないが、酔うと饒舌になり、英語も喋れる。かつて、東京オリンピックのヨットハーバー建設で漁場が埋め立てられると、島を出て横須賀、相模原と米軍基地を渡り歩き、やがてベトナムへ……。
ヨットハーバーが出来る以前の江の島はコチラ
江の島エレジー
物語の舞台、弁天橋の屋台「磯花」の女将(ママ)は陽気な女性。かつて島にあった江の島分校では源蔵さんの先輩らしい。歌が好きで、得意曲は映画「江の島エレジー」の主題歌。源蔵さんによれば、女将はかつて開拓移民としてブラジルへ渡った恋人の帰りを待ち続けているらしい。「江の島エレジー」が女将の人生に重なる。だが、苦労して始めたおでん屋台も、いずれは無くなってしまうという。
「江の島エレジー」を歌ったのは、「月がとっても青いから」の菅原都々子。
江の島のシークレット
サーファーの池田君は、江の島のシークレットスポット「サブロウ」でサーフィンに興じていたのだが、とてつもない大波に遭遇。江の島の伝説にもなっている世にも不思議な体験をする。
密航、不審船、そしてボートピープル
磯釣り帰りに、いつも磯花に寄るおじさん。釣り場近くで「密航、密輸、不審船。海の『もしも』は118番」という海上保安庁の看板を見かけたという。「この江の島で、そんなことがあるのだろうか?」と思ったようだ。しかし、学生運動で挫折し学習塾経営者となった尾木先生によれば、海辺の町は国境地帯。現実に、さまざまな出来事が起きているという……。
江の島の弁天様
江の島といえば弁天様。そのルーツは? 数学や英語より歴史が好きだという尾木先生によって解き明かされてゆく江嶋(えのしま)神社の成り立ちには、驚くべき歴史が隠されていた。運命に翻弄された弁天様のたどった道は?
弁才天像は江嶋神社の奉安殿に納められている。
向かって右は八臂弁才天(はっぴべんざいてん)。左は妙音弁才天。
そして弁天橋屋台の灯は……
弁天橋の屋台は、行政の勧告で一代限りの営業しか許されていなかった。
2008年の秋、最後に一軒だけ残っていた江の島弁天橋屋台の灯は消えた。
「わたし」は、ここで出会った人々のこと、数奇な話を書きとどめておこうと思った。