長崎・五島への旅
当ブログでは、これまで「殉教の旅」と題して、主に鎌倉の潜伏キリシタンの痕跡を追ってきました。しかし、日本にキリスト教が伝わった歴史の順序からしても、そのルーツである長崎と五島列島を訪ねなければならないという想いにかられ、旅に出ました。
羽田空港
じつは私、日本の国内線飛行機に乗るのは初めてで、少々うきうきしました。(アメリカの国内線にはずいぶん乗ったのですが……)
長崎
長崎は、日本にキリスト教が伝えられた後、最初の「殉教」が起きた地です。ならば、「殉教の旅」としては、まず訪ねるべき場所でした。(地図)
二十六聖人記念碑
JR長崎駅から、ほど近い場所に、この二十六聖人記念碑のレリーフがありました。(地図)
この長崎の町に面した西坂の丘は、豊臣秀吉のキリシタン禁教令のため、宣教師6名とパウロ三木ら日本人20名が大阪・京都などで捕えられ、長崎へ護送され、慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑されたとのこと。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから信者達がこの地を処刑の場に願い出たそうです。(「長崎市公式観光サイト」より)
記念碑だけかと思ったら、このレリーフの背後に立派な記念館(博物館)がありました。
入口には、この前日に亡くなられた第266代ローマ教皇フランシスコの等身大パネルが置かれていました。この記念館館長のレンゾ神父は、神学生のころ(教皇になる前の)フランシスコ師から指導を受けたそうです。教皇の日本訪問時に、彼が通訳として随行しているのを、私はテレビで見た記憶があります。カトリック信徒ではないのですが、この時期にこの地を訪れたことに、何かの因縁を感じました。
デ・ルカ・レンゾ神父(イエズス会日本管区長、日本二十六聖人記念館館長)
十字架にはりつけられた聖パウロ三木
日本では「二十六聖人の殉教」と称してますが、西洋諸国では「聖パウロ三木と仲間たち」とも呼ばれているそうです。
多くの展示物がありましたが、宗門改(しゅうもんあらため)の証書に目がとまりました。「宗門改」とは、江戸時代( 寛文 11年(1671 年))にキリシタンの取り締まりを目的として実施された住民の信仰する宗教を定期的に調査する制度 で、次第に住民の 戸籍調査としての性格が主となっていったとのこと。
宗門改の証書
<原文>
覚
一、法花宗 年弐拾六 いわ
右壱人従前之当寺旦方(旦那)
其粉無御座候若
以来於宗門出入之儀□御座者□何時茂拙寺
可承候為後日如件
宝暦二年 申三月五日
妙経寺
<現代語訳>
覚書
右の一名(いわ 二十六歳)は、以前より当時の檀家の者で間違いございません。
もし、今後ご法度の宗門に出入りすることがありましたら、いつでも私どもの寺が承ります。
後日の為、上記のとおりです。
宝暦二年(1752年)申三月五日
妙経寺
これを見たとき、ふと「殉教の旅(1)」でご紹介した、鎌倉光照寺が「隠れキリシタンを受け入れていた伝承」を思い出しました。おそらく、かつて光照寺も、このような証文を書いてキリシタン達を匿ったのではないでしょうか。ただ、この記念館所蔵の妙経寺「覚」が、「元キリシタンだった者が仏教に改宗したことを明かす書」なのか、「実際は改宗していなくとも、隠れキリシタンを匿う」ためのものだったのかは分かりません。
あれ? 弥勒菩薩では? と思ったら、朝鮮半島の三国時代(6世紀)に製作された弥勒菩薩像を、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)がキリスト像として拝んでいたものとのこと。
大浦天主堂
大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。聖堂内を飾るステンドグラスの中には、約100年前のものもあります。また、建立直前の1862年に聖人に列せられた日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。設計指導者はフランス人宣教師のフューレとプティジャンの両神父で、施工は天草の小山秀之進(のちに、「秀(ひいで)と改名」)です。1864年末に竣工し、翌年2月に祝別されました。この直後の3月に、浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。1875年と1879年の増改築により、平面形式と外観デザインも変容し、外壁も木造からレンガ造に変更されましたが、内部空間の主要部には創建当初の姿が保存されています。1933年に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、現存する日本最古の教会建築として1953年に再度国宝に指定されました。また、2018年にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつです。
(以上「ながさき旅ネット」より)
教会堂内部は撮影不可のため、この写真は「楽天トラベル」のサイトより。
天主堂の正面は「二十六聖人殉教」の地である西坂に向けて建てられています。
「日本之聖母像」
1865年にフランスから贈られたマリア像。
大浦天主堂に隣接する羅典神学校(セミナリオ)。
神学校の校舎兼宿舎?
「信徒発見」を描いたレリーフ
プティジャン神父の前にひざまずいて、信仰告白をしている浦上の潜伏キリシタンたち。
左は聖ヨハネ・パウロ2世の胸像。
右はプティジャン司教像(「信徒発見」に遭遇した宣教師)
十字架上のキリスト。
次は海を渡って五島列島に向かいます。
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殉教の旅(4)― 長崎・五島(その1) ― 長崎(二十六聖人記念碑、大浦天主堂)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その2) ― 五島 福江島(井持浦教会、堂崎教会)寄り道(大瀬崎灯台)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その3) ― 五島 久賀島(牢屋の窄殉教記念聖堂、五輪地区1)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その4) ― 五島 久賀島(五輪地区2)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その5) ― 五島 奈留島(江上天主堂)ユーミンの島♬
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その6) ― 五島 若松島(キリシタン洞窟)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その7) ― 五島 頭ヶ島(頭ヶ島天主堂)
殉教の旅(4)― 長崎・五島(その8) ― 五島 中通島(青砂ヶ浦教会、冷水教会、大曽教会、中ノ浦教会)
■殉教の旅(1)(2)(3)
殉教の旅(1)ー鎌倉に残る隠れキリシタンの跡ー
殉教の旅(2)― 東慶寺に残るキリシタンの痕跡 ―
殉教の旅(3)― 澤田美喜記念館 ―
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