また今年も「終戦の日」がやってきました
私は、「終戦の日」当日を知らない人間ですが、もの心ついたころから、この日が来ると特別な想いを抱くようになりました。ただ、その想いも、その時々によって変化していることは事実です。そして同時に世の中の風潮も変わっています。とりわけウクライナ紛争後の変化は大きいと感じています。
読売新聞オンラインより
それまでは「二度とあのような戦争を起こしてはならない」という、ある意味まっとうな風が吹いていたと思います。とろがウクライナ後は、ロシアの一方的な侵攻から「相手が攻撃してくれば反撃しなければならない。そのための備えは必用。要すれば敵基地攻撃……」というように風向きが変わってきたように感じます。
私自身の心の中にも、正直のところ同じような風が吹き始めたのは否めません。しかしその一方で、「一歩立ち止まって考えてみよう」と私は思っています。「相手が攻撃してくれば……。そのための準備……」は、かつて我が国が戦争に突き進んで行った時とまったく同じです。そして、どの国も同じように準備し、やがて衝突が起きて、あのように凄惨な戦争に突入していったのです。
Wikipediaより
原爆翌日。遺体のかたわらでたたずむ女性(1945年8月10日、長崎市、山端庸介氏撮影)
米軍撮影の映像。座り込んで身を震わせる少女(沖縄県公文書館)
また同じことを繰り返すのか?
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があります。そして、あの凄惨な戦争の記憶を持たない世代が多くなっている、ということもあるでしょう。また同じことを繰り返すのでしょうか? 人間とは、そういう学習しない生き物なのでしょうか?
たしかに「準備が必要」を否定はできません。しかし「一歩立ち止まって考えてみる」ことも忘れてはいけない。「終戦の日」は、そういう日でなければならないと思っています。
一歩立ち止まって考えてみる
悲しいことに、記憶は遺伝子に組み込まれないのかもしれません。ならば、それを伝承しなければなりません。歴史事実は記録を遺し、伝えるべきです。では「記憶」や「想い」をどのように伝えるのか? 私は、それを物語の中に埋め込んできました。うまく伝わるかどうかは分かりません。それでも、読者の方々に「一歩立ち止まって考えてみる」きっかけとなっていただければ嬉しく思います。
あの戦争の記憶を織り込んだ物語
かつて、そこには竜がいた
(当ブログ掲載)