あの東慶寺にキリスト教の遺物が?
鎌倉の山ノ内にある臨済宗円覚寺派の東慶寺(とうけいじ)は、かつて江戸時代までは縁切寺でした。というのは、さだまさしの歌にもなっているくらい有名ですね。縁切寺(駆け込み寺)の歴史からひも解けば、長~い話になってしまうので他へお任せし、当記事では「キリシタンの痕跡」という視点で見てゆきたいと思います。このお寺には、いつからあったのか定かではないようですが、葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでんせいへいばこ)というとても珍しい宝物があります。
葡萄蒔絵螺鈿聖
かつては東慶寺の宝蔵で展示されていましたが現在は非公開(写真は重要文化財記念切手)
聖餅箱を真上から見ると、蓋はこのように「IHS」が図案化されています。(写真は「日本の伝統文化を伝える実行委員会」(文化庁)より)
「葡萄」はブドウ。「蒔絵(まきえ)」は漆工芸の技法の一つで、漆で絵や文様を描き、金粉や銀粉を表面に蒔いて装飾するもの。粉を蒔いて絵にするところから蒔絵(まきえ)と呼ばれています。「螺鈿(らでん)」は貝殻などで細工した装飾。「聖餅(せいへい)」とはカトリック教会の聖体拝領(ミサ)で、聖なるイエス・キリストの体とされるパン(ホスチア)のこと。聖餅箱は、カトリックでも重要な儀式の聖具だそうです。しかも、その箱の蓋には、前回の「殉教の旅(1)」でもご紹介したキリストのシンボルである「IHS※」という文字が描かれています。
※ IHSは、ギリシャ語のイエス・キリストのラテン語表記、 Ihsouz Xristoz の、最初の三文字。後にラテン教会でIesus Hominum Salvator「人類の救い 主イエス」の略称。
では、仏教寺院である東慶寺に、なぜカトリックの聖具があるのか? 寺伝でも詳細は分かっていないようですが、いくつかの可能性をご紹介します。
千姫が持ち込んだ?
江戸初期、徳川秀忠(第二代将軍)と江の間に生まれた千姫は、豊臣秀頼の正室となるも、大阪夏の陣で家康の命により大阪城から救出されました。
徳川秀忠の娘、千姫
その後、秀頼と側室の娘、奈阿姫(6歳)が処刑されそうになると、千姫は、自らの養女として助命し、東慶寺で出家させ天秀尼としました。
東慶寺第二十世住持、天秀尼
やがて天秀尼は第二十世の東慶寺住持となります。東慶寺が幕府公認の縁切寺となったのもこの頃とのことです。この千姫がじつはキリシタンであったという説を唱える研究者は多くいます(全国かくれキリシタン研究会等)。根拠はさまざまですが、どれも決定的な証拠とまではなっていないようです。この「じつはキリシタンだった千姫(推定)」が葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱を東慶寺にもたらしたのではないか(推定)、という説があるのですが、推定の推定という域は出ていません。
もう一つの可能性
前回(殉教の旅(1))、光照寺周辺(小袋谷)に隠れキリシタンの集落があり、キリシタン伝道所の責任者、ヒラリオ孫左衛門とその妻が、江戸浅草から巡回してきたガルべス神父の一行を由比ヶ浜で迎えたところを役人に捕縛され、江戸に送られて処刑された事件をご紹介しました。
ガルべス神父に祝福を受けるヒラリオ孫左衛門夫妻(カトリック雪ノ下教会礼拝堂 画・村田佳代子)
その事件後も、小袋谷村には5、6人のキリシタンたちがおり「転んだ(キリスト教を棄教した)」ことにされたものの六代未の子孫までキリシタン類族として名主や五人組の監視が付きながらも光照寺の信徒として扱われていたことが分かっているとのことです(以上、鎌倉キリシタン顕彰会より)
そうなると、ここからは、私の邪推に他なりませんが、捕縛されなかった小袋谷村の鎌倉伝教所の信徒たちが、大切な聖具である「聖餅箱」を隠し持って逃げ、東慶寺に「駆け込んだ」可能性は考えられると思います。というのも縁切寺=駆け込み寺は、たんに男女の縁切りにとどまらず、アジール(聖域、避難所、自由領域)としての性格を持っていたはずですから、もし東慶寺に慈悲の心ある尼僧がいて、彼らを匿った(あるいは大事な聖具を預かった)ということは考えられます。(これも推定の推定ではあります)
暗い旅路の奥にかすかに見えるもの
いずれにしても、葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱は、西洋のものではなく日本の伝統工芸品であることは間違いありません。奴田原智明氏(カトリック中央協議会)は「仮にこれがキリシタン遺物、さらに聖具であるということならば、キリシタン大名が宣教師に贈るため作らせた、それしか考えられない」と述べています。なるほど……。
どんな匠が造り、誰の手から、誰に渡っていったのか……。
隠れキリシタンの痕跡を追う旅は長い旅になりそうです。
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