1964年の東京オリンピックは何をもたらしたのか?
■かつて、江ノ島東浦は豊かな漁場だった
名物「江ノ島丼」をご存じでしょうか? 見た目は親子丼にそっくりですが、具は鶏肉ではなくサザエの切り身です。甘い玉子とじにサザエが合うかどうかは好みもあるでしょうが、私は熱燗を一本注文し、まずザザエの切り身だけ拾って酒の肴にし、お銚子一本終わったら具のなくなった玉子丼ぶりをかきこむ、という独自の流儀でこの名物丼ぶりをいただくことにしています。サザエの壺焼きも名物です。でもこのサザエは、そのほとんどが島外で採れたものでしょう。ではなぜサザエが江ノ島名物となっているのか? その答えは「かつて」はたくさん採れたからです。「かつて」とは1964年の東京オリンピック前までです。
今でこそ江ノ島ヨットハーバーは二度のオリンピック競技会場として世界的にも有名です。しかしそれ以前は東浦という磯でした。そこにはサザエをはじめとしてアワビ、伊勢海老(かつては鎌倉海老と称していた)が豊富に採れた漁場だったのです。(下の写真)
かつての東浦(藤沢市文書館提供)
漁師さんたちは小舟で漁をしていました。江ノ島の主要産業であり、名物はここで採れていたのです。(下の写真)
■そして東浦は埋め立てられた
その磯の香り漂う豊かな漁場は、1964年開催の東京オリンピックのヨット競技会場に決まると、磯の沖合を鉄板で囲み、海水を抜き、そこへコンクリートを流し込んでハーバーを建設しました。磯は干上がり、サザエ、アワビ、伊勢海老、海藻など磯の生き物は死に絶え、コンクリートの下に埋まってしまいました。
現在、ヨットハーバーの裏手に聖天島公園があります。この公園の片隅に一軒家ほどの大岩がありますが、この岩は「かつて」は聖天島という島でした。今では公園の名にその面影をとどめています。
現在の聖天島公園。中央の木に覆われているのが「かつて」の聖天島。
かつての聖天島(藤沢市文書館提供)
■1964年の東京オリンピックがもたらした光と影
ヨットハーバーが建設され、「かつて」は磯の香りのした豊かな漁場は失われました。漁師さんたちはどうしたのでしょう? 反対運動などは起きなかったのでしょうか。成田空港建設では激しい反対運動が起きました。農民が土地を強制的に奪われたからです。けれど海には所有権はありません。漁業権というものがありますが、法的にもかなり曖昧なもののようです。1964年開催の東京オリンピックは国家的大事業でした。戦後復興を旗印に、当時の国民は歓迎ムード一色でした。その盛り上がりの中で東浦の漁民は影に押しやられたのかもしれません。
漁民には漁業補償が出たようですが周辺の海産物問屋や磯料理店などに補償はなかったと聞きます。島民の人口は1955年(昭和30年)が1372人。東京オリンピック以後は急減し2014年3月時点で島全体で362人です。漁場を失い、島を出て行った漁師もいたようです。彼らはその後どのような道を歩んだのでしょうか? 故国を追われて世界中に散っていったユダヤの民を連想するのは大げさかもしれません。それでも私は、生まれ故郷の東浦を去っていった彼らを想い、この地を舞台にした小説『オリンポスの陰翳』を書きました。読んでいただければ嬉しく思います。