1.鎌倉のこと

切通し(7)―名越(その2)―

この記事は「切通し(7)―名越(その1)」からの続きです。

 さて、名越(その2)では「第二ルート(ピンク色)」をご紹介します。タイトルの写真は、このルートの中でも象徴的な「お猿畠の大切岸」です。


 法性寺・大切岸方面への分岐標識(地図⑦)
 第一ルートの出口(亀が岡団地口)から分岐標識(⑦)まで戻り、分岐路を「まんだら堂やぐら群」を巻くように沿って大切岸、法性寺方面に向かいます(第二ルート)。


 山道から「まんだら堂やぐら群」を右下に眺めながら進みます。(地図⑧)


 山中の道に突如、洋館が現れます。(地図⑨)
 地元では「サリーちゃんの館」と呼ばれていますが、その裏塀に沿って進みます。裏からですと邸宅の一部しか見えず、普通の家に見えますが……詳細はコチラ。(切通し遺跡とは関係ないので興味ある方のみご覧ください)

さて、「大切岸」はどっちかな? と思っていると……。

 どこからともなく一匹の黒猫が……(地図⑩)
 山中で、突然目の前にまっ黒な猫が現れると、気味悪く感じる人もいますが、私は猫好きのほうなので、
「かわいいニャア、おまえさん。大切岸はどっちか知らんかね?」
と、冗談半分に聞いてみますと……。


「こっちなんだニャア」と応えるではありませんか。
(じつは、私、英語は苦手なんですが、ネコ語は少々できるんです)


 そして、私の前を、とことこ歩き出したのです。


 ときどき立ち止まってふり返り、私が来るのを待ってくれているかのよう……。(地図⑪)


 だんだん切岸っぽくなってまいりました。


 猫が、切り取られたような岩壁の前で、私を待ってくれてます。


 私を見て「ここはもう切岸なんだニャア」と言ってます。


 見ると、たしかに人の手で掘削されたような岩壁が現れました。(断面があまり風化していないので、この岩壁は比較的新しい切断面と思いますが……)
「ああ、たしかに切岸みたいだね……」
 と言って、足もとの猫を見下ろすと、もう姿がありません。どこへともなく消えてしまったのです。このとき私は、本当に黒猫に導かれたような気がして、不思議な気持ちになったのでした。
(これ、作り話っぽいですが、ほぼ本当です)


 これは「やぐら」なのか、それとも鎌倉石を切り出した跡なのか?


 法性寺の墓地まで来ると、「大切岸」の一部と思われる岩壁が現れました。(地図⑫)


 この岩壁は……、間違いありません。これぞ「お猿畠の大切岸」です。(地図⑬)


 大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3〜10mの切り立った崖が続く遺構です。かつては鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃を防御するために造成したと言われていましたが、平成14年度に発掘調査したところでは、鎌倉時代の建築、石段に広く使われた鎌倉石を切り出した石切り場と考えられるようになりました。ただし、石切り場の断崖が、結果として防御のために使われた可能性までも否定はされていません。(逗子市教育委員会資料)


 ここが石切り場であったとしても、この辺りから侵入するのは困難。その結果、鎌倉方面へは切通し道から入らざるを得ず、そこが攻防の要となるでしょう。鎌倉を防御する側としては、狭い切通しから来る侵入者を一網打尽にできるはずです。弓矢の場合、上から射るほうが圧倒的に有利ですから。(地図⑫)


 切岸の高さ感をお伝えするために、後日別撮りした写真です。(地図⑫)


 大切岸の手前は現在、畑になっているのですが、この辺りは昔から「お猿畠の大切岸」と呼ばれています。写真に写っている「現代の畑」と「お猿畠」が歴史的に同一、あるいは関連があるのかどうかについて今回の取材では調査しきれていませんが、法性寺(山号:猿畠山(えんばくさん))に、次のような話が伝わっています。

 建長5年(1253年)、日蓮上人は安房国清澄寺より鎌倉入りし、松葉ヶ谷に草庵を構え、布教活動を行っていましたが、文応元年(1260年)、『立正安国論』を鎌倉幕府五代執権北条時頼へ献じたことをきっかけに、浄土教信者らにより夜間、草庵を襲撃・焼き討ちされました。これを「松葉ヶ谷法難」と言います。この時、暴徒の到着に先立ち、日蓮上人の前に白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟(御猿畠)に隠れて難を逃れたとされ、日蓮上人はこれを山王権現の加護であるとし、弟子たちに報恩を託した、とのことです。
 注:「松葉ヶ谷」の場所は鎌倉大町の安国論寺内、長勝寺内(いずれも日蓮宗寺院)と諸説あり、明確にはなっていませんが、大町近辺のどこかであることは間違いないでしょう。(地図①大町口よりさらに鎌倉寄り)


 法性寺山門の扁額。両脇を白猿が支えています。(最後に寺を出るとき撮った写真です。地図⑮)


 大町にある安国論寺の山門。「松葉ヶ谷根本霊場」を謳った石碑があります。(取材散策後の別撮り写真。地図①大町口よりさらに鎌倉寄り)

 一方、『新編鎌倉誌』は次のように紹介しています。

御猿畠山〔附山王堂の跡、法性寺〕
 御猿畠山 (ヲサルバタケヤマ)は、名越の切り通しの北の山、法性寺の峯也。久野谷村(クノヤムラ)の北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。賤しみ憎んで一飯をも不送(ヲクらず)。其の時此の山より猿ども羣(ムラガり)來て畑に集り、食物を營(イトナ)んで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其後日蓮、猿どもの我を養ひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山(エンハクサン)畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟(イハヤ)は、堂の後ろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟相並んで六あり。此れ六老僧の居たる岩窟也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。

 お寺の言い伝えは、「白い猿(山王権現の化身?)が、日蓮上人を助けて御猿畠の岩窟まで導いた」。『新編鎌倉誌』は「日蓮は鎌倉へ来て岩窟に住んだ。諸人は賤しみ憎んで一飯をも与えなかったが、猿が山から来て集まり、畑で作物を作って日蓮に与えたので御猿畠という名がついた」という、日蓮さんに対して少々酷い紹介の仕方で、だいぶニュアンスが異なりますが、「猿が日蓮さんを助けた」という点では一致しています。ここで私は、またもや何か不思議な縁を感じたのであります。
 日蓮さんは、白い猿に導かれて「大切岸のお猿畠」にやってきたのですが、私は、黒い猫に導かれて同じ場所にやってきました。「白い猿」と「黒い猫」。「日蓮さん」と「私」。これらが相互にどのような関連があるのか……。いつもの私の深読み(妄想)か?(でも黒猫ちゃんが、私を「お猿畠の大切岸」に連れてきてくれたのは本当ですよ)

 
 大切岸の岩壁に開けられた大穴。もしや、日蓮さんが隠れた岩窟では?(地図⑫)


 近づいて……。よーく見てみますが、うーん、わかりませんね。


 大切岸、墓地から少し山を下ったところに小さなお堂がありました。(地図⑭)


 扁額には「日朗菩薩墳墓霊場」とあります。中に墓石のようなものが見えました。これは『新編鎌倉誌』の「堂の前に日朗の墓あり」という記述に該当するものでしょう。では、その「堂」はどこに? とふり返ると……、ありました。


 「日朗の墓(小堂)」のすぐ近くに、別の(少し大きな)お堂があります(写真の右)。その脇(後ろ)の岩壁に大穴が開いているではありませんか。ということは、『新編鎌倉誌』の「日蓮の巖窟(イハヤ)は、堂の後ろにあり」が、おそらくこれのことでしょう。
 いやあ、なんかすごい大発見をしたような気分ですが、お寺の山門(逗子市)から入ってくれば、おそらくどこかに説明版でもあるのかもしれません(今回は確認できてません)。私は、『新編鎌倉誌』を手掛かりにしながら鎌倉側から名越切通しに入り、法性寺の裏口(裏山)から入ってきたので、こんな宝探しのようなことになってしまいましたが、これはこれで、なかなか楽しかったです。(地図⑭)


「日朗の墓(小堂)」から少し下ったところにこんな石像がありました。赤い頭巾をかぶった白猿の母が子猿を抱いているのでしょうか。説明版等がないのでよくわかりませんが、「白猿の導きによって難を逃れた日蓮上人が、白猿は山王権現の加護であるとして、弟子たちに報恩を託した」ことと関係があるのかもしれません。(地図⑭)

■中世の痕跡としての名越切通し

 さて、「名越(その1)」でふれました「考古学上の新たな評価」(補足1)に関わることですが、逗子市から、ルート1の「第一切通し部分が中世のものではない(江戸時代)可能性」、および「新たに発見された道が中世の名越切通の本道」である可能性が提示されています。しかし、私は、この(その2)で見てきましたように、

1.大切岸で切り出した鎌倉石を鎌倉市街の建設に使用したこと。

2.松葉ヶ谷(鎌倉大町)で庵を焼き討ちされた日蓮さんが、大切岸付近まで逃れてきたこと。

 この二点から、少なくとも第二ルートは、ほぼ間違いなく中世からあった道と言えると思います。もしかしたら第二ルートこそ名越切通の(逗子側半分の)本道かもしれない、とも思っております。(すみません。素人の憶測です)


 ようやく法性寺山門へたどり着いて取材散策が終わりました。目の前に県道鎌倉葉山線が通っているのですが、バス停が見つからなかったので、そのまま鎌倉まで歩いて帰ることにしました。(地図⑮)


 歩いてきた名越の峠を見上げると「サリーちゃんの館」が見えます。望遠鏡で覗いたら、髭を貯えたサリーちゃんのパパが窓際に……、そんなミステリアスな雰囲気をたたえた邸宅です。(地図⑯から⑨を撮った写真)


 さあ、小坪隧道を歩いて抜けなければいけません。この先に逗子隧道もあって、心霊スポットで有名なトンネルです。(地図⑯)


 最初の小坪隧道は出口も見え、昼の光が射し込んでいますが、スピリチュアルな雰囲気といいましょうか、正直、霊気のようなものをビシバシ感じました。もし夕暮れ時であれば躊躇したでしょう。皆さん、名越を訪れるときは、くれぐれも日が落ちる前に歩き終えることをお勧めします。
 注)よく探せば、おそらくバス停はどこかにあると思います。

■切通しシリーズを終えて

 『新編鎌倉誌』を片手に鎌倉七口を歩き、私の憶測、妄想も交えて、つれづれなるままに「鎌倉の切通し」(鎌倉七口)をご紹介してまいりましたが、古文献や考古学上の新たな発見で歴史評価は日々変わっています。私の憶測や妄想も、気が変わって訂正、お詫びをしなければならない局面もあるかと思います。じっさい、このシリーズの途中でも、いくつかご指摘、ご指導を賜りました。印刷した出版物と違って、追加・訂正・補足が簡単にできるのもブログの良いところだと思っております。ですので「切通しシリーズ」も今回をもって「完了」ではなく、今後新たに判ったこと、補足、訂正・お詫びを発信してゆきたいと思いますので、ご指導、ご教示をよろしくお願い申し上げます。

 また、「切通しシリーズ」は当ブログの「鎌倉のこと」というジャンルに掲載しましたが、「江ノ島のこと」、「著作のこと」等、他のジャンルもございますので、そちらもご覧いただければ嬉しく思います。(各記事のトップにジャンル選択ボタンあり)

●最後に、またまた宣伝で恐縮ですが……

 鎌倉と江ノ島のはざまに住み、見て、聞いて、感じたことを題材に、小説も書いております。今は、まず『オリンポスの陰翳』を皆さまに読んでいただきたいと思っております。宜しくお願い申し上げます。

『オリンポスの陰翳』のご紹介

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