1.鎌倉のこと

『源氏将軍断絶』拝読

坂井孝一氏による源氏考

 坂井孝一著『源氏将軍断絶』(PHP新書 2021年1月出版)を拝読しました。
 坂井先生は2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証チームリーダーを担われるとのこと。北条義時が鎌倉幕府の実権を掌握するまでの物語ですので源氏将軍の死、実朝の暗殺は重要なモチーフとなるでしょう。となれば、当ブログで連載中の小説『春を忘るな』の書き手としては必読の書です。
 研究者らしく、多角的な史料比較で初期の鎌倉時代を炙り出しています。『吾妻鏡』が北条氏擁護の史料であることは、すでに一般的に評価されているため、私は、それを自明のこととしておりましたが、『源氏将軍断絶』(以降『源氏断絶』)により、あらためてそれに納得できたとともに、「擁護の部分」と「事実(史実と考えられる)部分」が朧げながらも見極められるようになったのは大きな収穫でした。
 詳細な史料比較を基にしたご研究ですから、ここですべてをご紹介することは難しく、私自身が新鮮に感じた部分、および『春を忘るな』で留意すべきところのみを以下にまとめました。

1.源氏将軍三代の評価

(1)源頼朝

 
 鎌倉幕府の創設者であり、北条氏擁護の『吾妻鏡』ですら、一定のリスペクトをしていますが、頼朝の死、及び死に至る二年間を『吾妻鏡』は記していません。これについて『源氏断絶』は、『愚管抄』『玉葉』『明月記』、他の史料から次のように考察しています。
 建久七年~九年(1196~1198年)の間(頼朝が死に至るまでの『吾妻鏡』に記録がない期間)、頼朝は自身の娘・大姫を朝廷に入台させようとする等、積極的に朝廷に近づいています。頼朝はあくまで朝廷を尊重し、鎌倉幕府は朝廷の唯一の官軍であろうとした。そして、はては公武合体までも狙っていたのです。これは、「頼朝は都を離れた東国の地で独立した武家政権を樹立しようとしていた」という従来の歴史学説「東国国家論」とは大きく異なります。
 一方、北条氏は、承久の変で朝廷と対立し、結果的に凌駕してしまったのですから、頼朝をリスペクトした上で北条政権を正当化しようとする『吾妻鏡』としては、この二年間の頼朝の行動(朝廷を尊重して接近)を書くことは都合が悪かったのではないか、と『源氏断絶』は考察しています。
 私としては、目から鱗のご考察であると同時に、『春を忘るな』の頼朝感と大きく違っていなかったことに安心しました。ただ、『吾妻鏡』が、頼朝の死について詳細を記していないことについては、何かある(怪しい)とは感じています。(坂井先生は、これには言及していませんが……)

(2)源頼家

 
 『吾妻鏡』の頼家評は、じつに酷いものです。蹴鞠に興じて政務を顧みなかった。家来の妾を横取りした云々。訴訟の裁定がまともにできなかったので、直截を停止され、よって「十三人の合議制」が敷かれた等、枚挙にいとまがありませんが、「十三人の合議制」については大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と大きく関わるので、ここで言及します。一般的に「合議制」といわれていますが、13人が一堂に会して合議した記録はないとのことです。頼家は、訴訟の裁決そのものを禁止されたのではなく「直接に訴えを聴くこと」を止められ、13人の誰かが(個別に)間に入って訴えを聞き、最終的には頼家が決済したようです。(現代でも大組織では普通のこと。社長が全ての部署の案件を直接は見ませんよね)
 『吾妻鏡』の曲筆で、ずいぶんと頼家のイメージが悪くなっている(まるでダメ殿という扱い)のが、よくわかります。もともと頼朝の構想は、二代目は頼家、三代目は頼家の正室・辻殿(源為朝の孫娘)の子・公暁(善哉)だったようです。ところが(ここ、すごく重要!)、頼家は側室の若狭の局の子・一幡を後継に据えようとしました。若狭の局は比企能員の娘です。つまり、そのままでは、比企氏が将軍の外戚となり、北条は蚊帳の外になってしまいます。これを危ぶんだ北条時政が比企能員を自邸に呼び、殺害してしまったところから「比企の乱」が起こり、北条は比企氏を滅ぼし(一幡も殺害)、三代目将軍に政子の妹・阿波の局を乳母として育てた(つまり北条が育てた)実朝を将軍に据えたのです。(「比企の乱」というより「北条の乱」といったほうが解りやすいですね。比企の乱の直前に、元気だった頼家が急に病となり危篤状態になったのも怪しいですが、これについて坂井先生は言及していません)
 病になった頼家は、まだ死んでないのに、朝廷に「頼家死亡」が報告されて実朝が将軍に就任。その後、頼家は伊豆に幽閉されたうえ殺害されました。
 やはり、本当は公暁が三代目の有力候補だったわけです。
「本当はわしが将軍になるはずだったんや!」と言ったかどうかわかりませんが、このあたりは『春を忘るな』で見てゆきたいと思います。
 いずれにしても『源氏断絶』の頼家感(けしてダメ殿ではなかった)は『春を忘るな』でも同じです。

(3)源実朝

 
 北条氏の強力なバックアップにより将軍となった実朝ですが、正室の選定に於いても、その影響が見えます。『吾妻鏡』は、最初、足利義兼の娘が候補になったが実朝が拒否したと記しています。足利義兼の母は頼朝の母と同様、熱田神大宮司の娘、つまり頼朝と姻戚関係となり、源氏の血筋である足利義兼が外戚となって力を持つ可能性があったため、北条時政が嫌った可能性がある。当時、実朝がまだ13歳だったことを考慮すると、実朝の意向というより時政の意向だったのではないか、と『源氏断絶』は述べています。結果として、御台所に決まった信子(坊門信清の娘)は後鳥羽院の従姉妹にあたり、幕府将軍と朝廷が強固な関係になったといえます。北条氏としても(この段階では?)、どこかの武家が将軍の外戚となるよりは、京の公家のほうが都合良かったということでしょう。『源氏断絶』は北条氏も朝廷との良好な関係を望んだ、としていますが、後に「承久の変」を経て以降、北条氏が実権を握った鎌倉幕府は朝廷と対立し、凌駕したことを考えると、そこには、私は少々疑問を感じます。それでも、そのこと自体は『春を忘るな』の物語には影響しません。

2.なぜ源氏将軍は三代で断絶したのか?

 まさに、これが『源氏断絶』の主題です。私の理解で僭越ですが、以下のとおりまとめさせていただきました。

(A)実朝・信子夫妻の間には子ができなかった。にもかかわらず実朝は、当時は当然だった側室(妾)をとらなかった。その理由は、

①信子は後鳥羽の従姉妹であり、実朝は後鳥羽を尊崇していたので、妾をとるのはもってのほかと実朝自身が考えていた。

②実朝にとって信子以上の貴種はなく、後継は自身と信子の間の子以外にないという想いがあった。

(B)周囲(政子、義時、御家人たち)にとって、頼朝の子孫以外に将軍の選択肢はないという「源氏将軍観」がすでにあった。となれば、頼朝の直系である公暁、禅暁(頼家の子供たち)も候補にあったはずだが、頼家を暗殺した側(時政? 義時? 政子?)としては、その子を主君にするのは危険だった。(自分たちは仇となる)

(C)実朝は、自分に子が出来ないことを悟り、次なる手段としては、院(天皇家)の血筋(子)を後継に据えるという大胆なヴィジョンを描いた。そして健保六年には政子・時房が朝廷との交渉役となって上洛し、交渉は成功した。

(D)後鳥羽も実朝のヴィジョンに賛同していたからこそ、実朝に右大臣という武家では到底到達できない高い地位を与えた。

(E)北条氏(政子、義時)としても、将軍後継は実朝の実子以外無い。しかし、それが不可能ならば、主君(将軍)が至高の貴種、王家の親王であれば執権の地位も高くなるので賛成だったのではないか。

(F)以上のことから、源氏将軍断絶は、実朝の死(暗殺)によって起きたことではなく、実朝の存命中から王家の親王を将軍として迎える事(源氏断絶)が既定路線だった。

 まさに(F)が『源氏断絶』の結論のようです。詳細な史料研究から導き出された結論なだけに説得力があります。ただ、私としては(E)の「北条氏も王家の親王を将軍として迎えるのに賛成だった」については、疑問が残ります。というのも、ならばなぜ「既定路線」を根底からひっくり返す(貴種である王家を流罪に処するような暴挙)「承久の変」が起きたのか? これについて坂井先生は「大事な実朝を死なせてしまうような幕府、実朝のいなくなった幕府に大切な親王を渡せない」と後鳥羽が考えを翻したから、としています。
 う~ん、「そうかも」しれないし、「そうでないかも」しれません。「そうでないかも」と私が思う理由は、「承久の変」以降の実態を見る限り、「北条氏としては実朝死後はどんな源氏(公暁をはじめとする他の源氏血族)も戴くことはせず、傀儡の将軍(京の公家)を置いて、執権として北条が幕府の実権を握ることを、もとから狙っていたのではないか(結果としてそうなった)。実朝構想通り、王家の親王が将軍になったのでは北条の家格からして幕府は完全に朝廷に凌駕されてしまうので、北条としては避けたいはず。よって、既定路線を破る何らかの画策(陰謀を含め)があったのではないか? それが「承久の変」に繋がった可能性もある、と疑い深い私は思うのであります。
 それでも、陰謀があったか無かったかは『春を忘るな』の本筋には影響しません。

3.実朝暗殺の黒幕説について

 実朝暗殺について坂井先生は、公暁の単独犯行とし、黒幕の存在を否定しています。ここでは、その否定の理由だけを簡単にご紹介し、私の考えも添えさせていただきます。暗殺の経緯及び「黒幕説」については、拙ブログ記事(※)「源実朝の謎(2) 実朝暗殺事件の影に蠢くもの」の「実朝暗殺の背後に蠢く怪しい影」をご覧ください。

(1)北条義時黒幕説
  
  事件発生時、義時は八幡宮中門より先は実朝に随行せず「気分が悪くなった」と言って自邸に帰ってしまった(『吾妻鏡』)。中門に留まっていた(『愚管抄』)。と記されており、事件現場にはおらず、義時と見間違えられた源仲章が切り殺されてしまったために、疑われています。しかし、

①そもそも当時、実朝と共に親王将軍推載を進めていた義時が、目標達成の直前で御破算にするような挙にでるわけはない。実朝がいなければ、家格の低い北条では親王将軍推載は不可能である。

②『吾妻鏡』の大倉薬師堂「戌神」の言い訳がましい話(詳細は前記※をご参照方)で疑われていることについては、得宗初代の義時が「中門に留まれ」と命じられるような存在だったとは『吾妻鏡』は書きたくなかったから、という奥富敬之氏の説を支持。

という理由で否定しています。
 ①については、北条も親王将軍を本当に望んでいたとすれば、その理由も解ります。しかし、私は前述したとおり、後に「承久の変」が起きたことを考慮すれば、北条氏が本気で親王将軍を望んでいた、ということに若干の疑問は感じています。(実朝の前では賛同のポーズをとっていたかもしれないが……)

(2)三浦義村黒幕説
 
 三浦義村黒幕説は小説家の永井路子氏が提唱した説で、義村は公暁の乳母夫であったことから、坂井先生もある程度は評価していますが、以下の理由で否定しています。

①もし本当に公暁を将軍に祭り上げ、自身が執権になることを狙っていたなら、「和田の乱」で和田から北条に寝返るようなことをせず、和田に与したまま北条を討ったほうが成功確率は高かったはずである。

②義村は、実朝の右大臣拝賀式の行列に参列しておらず、それを理由に怪しむ説がある。が、これについては、義村は数ヶ月前にあった実朝の左大将直衣始の儀において、同族の長江明義とトラブルを起こし、行列の出発を遅らせるという失態を犯している(史料あり)。そのため右大臣拝賀式ではペナルティーとして参加を停止させられたのではないか(推定)。

①はごもっともと思いますが、「和田の乱」で寝返らずに和田に与したまま北条を討ったほうが成功確率は高かった、とまで言い切れるでしょうか。実際、和田は負けているのですから……。

②の「左大将直衣始の儀におけるトラブル」については、私も初めて知りました。さすがに様々な史料をご覧になられた研究者だからこそ、と感服しました。
 ただ、私は、②によって三浦義村黒幕説の一角が崩れた感はありますが、公暁の乳母夫であったことを考えると、永井路子氏説も否定はできないと思っています。(『春を忘るな』では、その疑いがあるように書いてますが、物語の本筋ではありません)

(3)後鳥羽上皇黒幕説
 
 これについて坂井先生は言及すらされていません。後鳥羽、実朝の正室・信子(後鳥羽の従姉妹)、実朝という関係は強固であり、「まったくあり得ない」ということだと思います。
 坂井先生の研究結果からすれば、ごもっともと思います。

4.なぜ小説『春を忘るな』を書くのか?

代替テキスト『春を忘るな』

『源氏断絶』は、さまざまな史料研究により、主に政治的な側面から、なぜ源氏将軍が三代で断絶したか、を解き明かしてくれています。しかし、「人間、源実朝の死」ということについて、私は次のような疑問を持っています。

(1)甥が肉親の叔父を殺す?

 
 源実朝殺害の実行犯が公暁であることは、ほぼ間違いないでしょう。実朝にとっては甥です。甥が肉親の叔父を殺害して将軍になろうとする。そんな陰惨な行為も「中世の価値観からすればあり得る」、「あの時代はそんなもの」。そうなのかもしれません。ならば彼らの心模様はどんなものなのか?

(2)政子は我が子を暗殺されても尼将軍でいられる「鉄の女」だったのか?

 
 北条政子は腹を痛めた我が子を、二人も陰惨な暗殺で失いました。しかも、孫(公暁)が子(実朝)の首を切って持ち去るという凄惨さは、普通の母親ならば聞いただけで卒倒してしまうでしょう。それなのに、その後の「承久の変」では尼将軍と称されるほど気丈に振舞い、幕府軍の士気を鼓舞しました。まともな人間感情からすれば「尼将軍」どころではなく、傷心の「尼」として我が子の菩提を弔うことしかできなかったはず。はたして政子は「鉄の心を持つ女」だったのでしょうか?

(3)なぜ将軍、源実朝の御首は消えたのか?

 実朝は鶴岡八幡宮で殺害された際、御首(ミシルシ)を持ち去られ、首無しの遺体が勝長寿院に葬られています。なぜ、そのようなことになったのか? 信長のように火を放たれたわけではなく、実朝の御首を携えていた公暁をその日のうちに捉えて誅殺しているではありませんか。公暁の携えていた御首はどこへ行ったのでしょう? 公暁がどこかへ落としてしまったなら、幕府はどんなことをしても探し出して(たとえ嘘でも)きちんと埋葬する(埋葬したことにする)はずです。それが北条擁護のはずの『吾妻鏡』が執権義時の幕府の大失態を克明に記しています。じつに不思議です。
  
 秦野に「源実朝公御首塚」があります。『吾妻鏡』も『愚管抄』も、これにはまったく触れていませんが、そこに実朝の御首が葬られているのでしょうか? だとすれば、幕府も政子も掘り出して勝長寿院に葬るでしょう。まったく不可解です。

(4)「春を忘るな」は辞世の句なのか?

 出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

 源実朝の辞世の句と云われています。でも、この歌には死の予感、覚悟といったものより、どこか希望にも似た何かを感じるのは私だけでしょうか……。

 このような人間性に関わる疑問にまで『源氏断絶』は答えてくれません。ですので私は、上記の疑問に対し、小説という手法で、この事件を解明しようと思っています。後半は、いよいよ公暁も京から鎌倉へもどってきます。事件は刻々と近づいています。『春を忘るな』の後半を、私と共にタイム・トラベルしてみませんか。

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