1.鎌倉のこと

え? 鎌倉時代って竪穴式住居だったの?! ―『春を忘るな』の周辺(4)―

『金槐和歌集』をひも解いていると、ときどき首を傾げることがあります。(竪穴式住居の話は、もうちょっと待ってね)
 将軍である源実朝が、この歌をどんな状況で詠んだのだろう? と……。
たとえば、

 いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母をたづぬる

 詞書(ことばがき)に、道のほとりに幼き童の母をたづねていたく泣くを、そのあたりの人にたづねしかば、父母なむ身まかりにしと答え侍りしを聞きて詠める、とあります。

また、

 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも

 こちらは、百人一首にも入っている歌ですが、海辺で、漁師の漕ぐ小舟を眺めながら、なにやら切ない想いに浸っているのではないかと思います。
 鎌倉幕府の将軍といえば、現代の首相クラスの要人。しかも、当時は、兄の頼家も暗殺され、実朝も、常に身の危険に晒されていました。おそらく気軽に外出することなど出来ず、御所の外へ出るときは、現代のSPに相当する警護の武士に、がっちり囲まれていたはずです。しかし、この二首(他にも同様あり)を詠んだ時の状況を想像すると、そんな物々しい雰囲気は感じられません。一人ふらりと庶民の屯する町中を歩き回りながら、ふと目にした光景に感じ入り、心静かな状態で詠んだかに思えます。
 そこで、小説『春を忘るな』では、親しい友でもある和田朝盛(和田義盛の孫)とともに、托鉢僧の姿に身を隠して鎌倉庶民の町である前浜を徘徊し、庶民の暮らしを見て回る場面を書きました。歌を詠む局面も、ごく自然に生まれてきます。
「そんな、水戸の黄門様のような事が簡単にできるわけないだろう」とお思いでしょうね。はい、その通りですので、それなりの状況設定がありますので『春を忘るな』(6)をご覧になってください。


きっと、実朝と朝盛は、こんな感じで……。


「前浜」と言っても、海浜だけでなく鎌倉の南側地域一帯を指し、主に庶民が住んでいました。北側の山裾、谷戸には御家人の屋敷がありました。

 物語としては、まず中世鎌倉の庶民の町である前浜の情景、様子を描かなければなりません。庶民のいで立ち、町並み、建物はどんなだったろう? と頭の中に映画のセットを作ってゆきます。そのためにまず前浜を調べなければなりません。ところが残念なことに、鎌倉時代の町並み、建物は、現在の鎌倉にはほとんど存在しません。有名な神社、仏閣ですら、そのほとんどが後世の再建です。本当の中世の町並みは地面の下。つまり考古学的発掘に頼らざるを得ず、近年ようやくその一部が明らかになりつつあります。
 さて、ようやく今回の本題ですが、鎌倉時代の庶民の住まいは竪穴式住居だったのです。それは、発掘によって考古学的にわかってきました。


鎌倉市由比ガ浜二丁目「下馬周辺遺跡」発掘図面
公益財団法人かながわ考古学財団資料より(※以下同じ)


中世鎌倉の竪穴式住居は、ほぼ全て方形、長方形です(※)


(※)


(※)

以上のような発掘遺跡だけでは、なかなか建物の姿がイメージし難いのですが、ありがたいことに『鎌倉地図草子』(編集:歴史探訪社)という本があり、発掘でわかってきた中世鎌倉の様子を下のような絵にしてくれています。

左上の小屋の間口を見てください。人の下半身は地面より下にあります。つまり、この絵の小屋は全て竪穴式です。

拡大してみましょう。

小屋の屋内は地面より下。屋根板は地面に接しています。これにより雨水が屋内に侵入するのを防ぐのでしょう。また、掘った土を周囲に盛って囲み、防水したものと想像します。(私個人の推測ですが……)


これは竪穴式住居の復元モデル

 竪穴式住居といえば、縄文時代~弥生時代、せいぜい古墳時代というイメージがありませんか? ところが、庶民の住まいとなると、平安~鎌倉時代はもちろん、それ以降の時代も竪穴式住居が使われていたようなんです。
 貴族、武士など上層の階級は高床式。庶民は竪穴式。なんででしょうね? こういうこと考えていると、私は夜も眠れなくなるんです。悶々としていると、高校の古文教科書に載っていた『徒然草』の一文が浮かびました。

 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。

 私は、あの頃、この兼好先生の言われることが、まったく理解できず、その後もずっと気になっていました。というのも、私は元来寒がりで、寒いとこ大嫌い。なので雪国でスキーやるより、南の島でサーフィンやウインド・サーフィンやっていたい人間なんです。なので「冬はどんな所でも住める」ですって? 考えられません。「暑い住居は耐え難い」、ま、最近の温暖化による酷暑は尋常ではありませんが、寒さで凍え死ぬことはあっても、暑くて死ぬことはそう多くはなかったはずです。しかし、中世でも「庶民は竪穴式住居」だったことを知って、ようやく見えてきました。兼好先生は、「人は己れをつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世をむさぼらざらんぞいみじかるべき。昔より賢き人の富めるは稀なり」な~んて、清貧の元祖よろしく仰ってますが、なんだかんだ言ってももとを正せば神職(貴族)のお家柄。生粋の庶民に比べれば、着る物はそこそこ持っていて、寒ければ重ね着すればいい。逆に、暑くてもフンドシ一丁というわけにはいかったのでしょう。なので、ああいう発言になるわけですよ。一方、庶民は布地が高価なため衣服をそう多く持っていません。寒ければ、出来るだけ温かい所を見つけて篭るしかないのです。逆に暑いときは、スッポンポンでいたって誰にはばかることもない。それが庶民生活の気楽なとこ。なので、上流階級は「夏をむね」とした風通しのいい高床式住居に住み、庶民は隙間風の入りにくい温かい地中を利用した竪穴式住居に住んだのでしょう。だから、庶民の家は「冬をむねとすべし」なのです。はい、ようやく納得。すっきりしました。
 私は『徒然草』も兼好先生も大好きなんですが、先生は決して中世人の全てを代表しているわけではなく、庶民の気持はわかってねえんだろうな、というのが現在の私の個人的感想であります。

 少々、話題がずれましたが、そういった夜も眠れない考察、いや妄想?の末、中世鎌倉の町並みが、私の脳裏におぼろげながら浮かび、ようやく『春を忘るな』を書くことができました。

 大河ドラマや時代劇で、中世の庶民の住まいが登場することは少ないでしょう。『春を忘るな』は、源実朝暗殺の謎を解くことを主題とした小説ですが、中世鎌倉のリアルな様子、空気感も描き込んだつもりですので、ご興味わいた方は物語世界を覗いてみてください。
■小説『春を忘るな』はコチラ

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