光照寺に残る隠れキリシタンの跡
光照寺(西台山英月院)
時宗の開祖一遍上人が、念仏布教ために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれるお寺です。
山門の欄干には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。
(以上、光照寺縁起より)
一遍上人が鎌倉入りを阻まれた様子を描いた一遍上人聖絵(いっぺんしょうにんひじりえ)
(国宝名「一遍上人絵伝」清浄光寺(遊行寺)所蔵)
一遍上人は「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず」 人間の善悪、浄濁、智鈍、信疑は阿弥陀如来の誓いをさまたげることはない、南無阿弥陀仏を唱えることで全ての人が救われる、という教えを説きました。(時宗光照寺ホームページより)
上の「鎌倉入り阻まれる」の聖絵や他の聖絵にも、一遍上人の周囲には貧しい人々、頼などに病める人々が多く描かれています。信仰の異なる者すら受け入れる博愛ともいえる精神が受け継がれ、異教徒である隠れキリシタンをも受け入れたのだと思います。
光照寺はJR北鎌倉駅西口から北西約540mのところにあります。
クルス紋
山門の梁の中央には、たしかに私の見たことのない紋(マーク?)が掲げられています。
これは I H S というアルファベットを図案化したもので、イエズス会の紋章にもなっているラテン語の Iesus Hominum Salvator「人類の救い 主イエス」の頭文字だそうです。(ギリシャ語のイエス・キリストのラテン語表記、 Ihsouz Xristoz の、最初の三文字 IHSという説もあるとのこと)
※後日追記:本来は Ihsouz Xristoz(イエス・キリスト)の最初の三文字。後にラテン教会でIesus Hominum Salvator「人類の救い 主イエス」の略称となったとのこと。(『地方切支丹の発掘』海老沢有道より)
描いてみると、なるほどIHS……。
山門そのものは、光照寺の近くにあって廃寺となった東渓院の山門を移築したものとのこと。
付近には「キリシタン伝道所」があったとの伝承(後述)もあり、光照寺周辺には隠れキリシタンの集落があったのではないかと推察します。
イエズス会の紋章(Wikipediaより)
光照寺本堂
本堂は安政六年(1859年)に建立され、隠れキリシタンの燭台が2基あるとのことですが、中を見ることはできず、確認できませんでした。
光照寺の墓所にある古い墓石、庚申塔、道祖神等を探索してみましたが、ざざっと見た限りでは、隠れキリシタンの痕跡等は見つかりませんでした。
墓所の山側法面には「やぐら」と思われる横穴を塞いだ跡がありました。かつて、ローマのキリスト教徒が地下の共同墓地(カタコンベ(catacombe))でミサを行っていたように、鎌倉の隠れキリシタンたちが墓跡である「やぐら」でミサを行っていた……、と想像するのは飛躍しすぎでしょうか。
カトリック雪ノ下教会に残る隠れキリシタンの伝承
カトリック雪ノ下教会
カトリック雪ノ下教会は鎌倉駅東口から徒歩3分です。(前掲の地図では右下)
礼拝堂に入ったとたん、カトリック教徒でない私でも、厳かな気持ちになります。
この教会には次のような記録があります。
元和9 年8 月(1623 年)、鎌倉で5 人のキリシタンが捕縛されました。その場所は極楽寺村の海岸ではないかと思われます。その5 人とは小袋谷村(現北鎌倉と大船の間)あたりにあったキリシタン伝道所の責任者、フランシスコ会第三会の幹事役ヒラリオ孫左衛門夫妻と江戸浅草から巡回中のガルべス神父、看房ホアン長左衛門、同宿ペドロ喜三郎でした。
10 月13 日(1623 年12 月4 日)ガルべス神父、ホアン、ペドロ、ヒラリオ孫左衛門は、江戸品川あたりで他46 名と共に処刑されました。その日はよく晴れた寒い日だったと記録されています。11 月3 日(1623 年12 月24 日)ヒラリオ孫左衛門の妻も、他36 名の人々と共に処刑されました。
有名な島原の乱(1637 年)よりも14 年も前の出来事です。
(カトリック雪ノ下教会の記事より。出典はチースリク「江戸の大殉教」『キリシタン研究・第四輯』または『契利斯督記』の中の「切支丹出で申す国所の覚」と推測)
小袋谷村(現北鎌倉と大船の間)とは光照寺のある辺りです。このカトリック雪ノ下教会の記事は、光照寺の縁起と重なります。鎌倉には隠れキリシタンの集団がいた。江戸幕府の寺請制度(てらうけせいど)のもとで、時宗の光照寺が彼らをキリシタンのまま檀家として扱って庇護していた。鎌倉の隠れキリシタンのリーダーであったヒラリオ孫左衛門と妻が由比ヶ浜で、江戸からやってきたガルべス神父らを迎えた時、懸賞金目当ての船頭の密告によって役人に捕縛され、江戸へ連れてゆかれて処刑された……。
礼拝堂の祭壇脇が小部屋になっていて、現代の画家(村田 佳代子画伯)の描いた「鎌倉のキリシタン」という連作(三作)が収められています。
中央のこの絵は、極楽寺村の海岸(おそらく由比ヶ浜)に到着したガルべス神父からヒラリオ孫左衛門夫妻が祝福を受けている様子を描いたものでしょう。
向かって左側のこの絵は、ヒラリオ孫左衛門が火あぶりの刑に処せられている図でしょう。
10 月13 日(1623 年12 月4 日)ガルべス神父、ホアン、ペドロとともに江戸品川あたりで他46 名と共に処刑された、との記録をもとに描かれたものと思います。
向かって右側のこの絵は、孫左衛門の妻が江戸小伝馬町の牢獄に入れられている様子を描いたものでしょう。
11 月3 日(1623 年12 月24 日)ヒラリオ孫左衛門の妻も、他36 名の人々と共に処刑された、との記録から推測して、夫、孫左衛門はすでに処刑され、自身も処刑を待つ身だったのでしょうか。あるいは、夫の処刑を知らされた時かもしれません。(「江戸小伝馬町の牢獄」は、チースリク監修、太田淑子編『キリシタン』より)
鎌倉に残る隠れキリシタンの痕跡を追う
「隠れキリシタン」というと、私は長崎、天草、五島のイメージが強く、鎌倉に隠れキリシタンがいたという事をあまり意識していませんでした。そして仏教(時宗)の寺が、彼らを匿っていたということを知り、新鮮な驚きとともに新たな視点が開けたように感じました。同時に、信仰とは何か? これまで私の中には無かった新たなテーマが浮かび上がってきました。
まったく新たなテーマですので、私の目指す形になるまで、これまでよりは時間が掛かりそうですが、新たな旅の始まりとなりそうな予感がしています。