注記:「朝夷奈(あさいな)」の表記は文献により「朝夷名(あさいな)」「朝比奈(あさひな)」がありますが、この記事では「朝夷奈(あさいな)」に統一します。
鎌倉から東京湾へ通じる古道
■塩の道
鶴岡八幡宮の三ノ鳥居に向かって手前を左右(東西)に走る道があります。これを右(東)へどんどん行って山を越えると東京湾に面した六浦に出ます。この道を六浦道(むつらみち)と称して奈良時代から塩を鎌倉に運ぶルートになっていました。この三浦半島を横断する峠の道が「鎌倉七口」の一つ、朝夷奈切通しです。
朝夷奈切通しを示す史跡碑
源頼朝の命で、上総介広常を討った梶原景時が、血で汚れた太刀を洗ったと云われている太刀洗川。その源流は、この朝夷奈切通しにありますが、鎌倉には、こういう血なまぐさい話がたくさんあります。
2019年9月の台風15号による被害で、倒木、土砂崩壊により通行不可能な所が数か所ありましたが「自己責任」で踏破してまいりました。
道脇の崖に彫られた摩崖仏。いつの時代のものかわかりませんが、土地に刻まれた鎌倉の記憶です。
おそらく「やぐら」でしょう。鎌倉はいたるところにありますが、「やぐら」シリーズで詳しくご紹介したいと思います。
人の手で掘削されて造成された道。じつに切通しらしい風景です。
鎌倉時代の最も実戦的な武器は弓矢でした。崖上から射る矢には威力があり、下から放つ矢には力がありません。狭い路ですから外からの侵入者は一網打尽。実際に歩いてみると、切通しが強固な防塁であったことがよく解ります。
一般的には「通り抜け」できる状況ではありませんでした。
落石は注意しても防げるものではないので、訪れる方には「自己責任」の覚悟が必要です。
■「朝夷奈」の由来について
この朝夷奈切通し、伝説では朝夷奈三郎義秀という武将が一夜にして作ったと云われていますが、あくまで「伝説」です。しかし朝夷奈三郎義秀という男は実在しており、これについて書きだすと大変長い話になってしまいます。私は『ひぐらしの啼く時』(注)という小説でこの男を脇役で登場させていますが、ここでは少し端折ってご説明します。少々込み入った説明になってしまうかもしれませんがお許しください。
注:この記事を書いた2020年4月の時点では『ひぐらしの啼く時』は出版していませんでした。
朝夷奈義秀は和田義盛の三男です(だからミドルネームが三郎)。和田義盛といえば鎌倉幕府御家人の重鎮でありながら、和田の乱で三代将軍源実朝に盾ついて乱を起こし(じつは将軍にではなく北条氏への不満だった)、最後に討ち死にした場所が和田塚として地名に残っています(江ノ電の駅名にもなっている)。では、なんで和田の息子が朝夷奈なの? とお思いでしょう。じつは鎌倉幕府の有力御家人である三浦氏一族(三浦水軍として有名)は居を構えた場所の地名を苗字にしているのです。たとえば鎌倉最古の寺と云われている杉本寺(杉本観音)の裏手に杉本城(現在は埋蔵ながら未発掘)があり、杉本氏が六浦道の警備役として居を構えていました。
杉本寺の苔むした石段。時の流れを感じますが、この裏手に杉本城がありました。
この杉本氏も三浦一族。つまり和田も朝夷奈も杉本もみんな三浦一族なのです。そして、なぜ和田義盛の三男が朝夷奈なのかといえば、和田義盛は現在の千葉県の安房にある和田御厨に所領があったのですが、同じ安房に「朝夷」という地名が残っており、義秀はここを領有していたようです。当時は鎌倉から六浦、そして東京湾を渡って安房というルートは比較的近距離で(「うんちく」をご参照方)、そのルート周辺を三浦氏、杉本氏、和田氏が管轄していたようです。和田義盛、朝夷奈義秀の親子にとって、このルートは安房にある所領と宮仕えの地である鎌倉を行き来する通勤路だったのです。となれば、このルートを確保する重要な役割を担っていたことは十分考えられます。たとえば台風でこんな状況(下の写真)になることもあったでしょう。
2019年9月の台風15号による倒木。今回の取材では、このような倒木や土砂崩れが数か所あり、私は大変苦労してようやく越えましたが、鎌倉時代の馬や荷車であれば通れなかったでしょう。
朝夷奈義秀が「ええい、邪魔くさい。どかせようぞ!」とか言いながら、片肌脱いで取り除きに尽力し(家来も汗したかもしれませんが)、それを見ていた往来の民が「おお、さすがは朝夷奈様じゃ」と感嘆の声を上げ、「ここは朝夷奈様の道じゃ」と口々に褒めたたえ、口伝てで噂が広がり、それが「一夜にして云々の伝説」になったのかもしれません。(すみません。小説を書く人間なので、つい憶測が妄想に膨れ上がってしまいます)
注記:『吾妻鏡』には、「仁治元年(1240年)11月に鎌倉幕府執権、北条泰時が六浦道の改修を評議し……」という記述がありますが、これは年代から見て 和田の乱(1213年)で和田義盛、朝夷奈義秀が討ち死にした後のことで、しかも「改修工事」となっています。つまり朝夷奈義秀が六浦道の峠道(切通し部分)の造成(改善)に何らか関与したとしたら、義秀の方が北条泰時よりも先ということになります。(『吾妻鏡』の記述を根拠に、北条泰時が造ったかのように説明しているものもありますので要注意です)
また、朝夷奈義秀は和田の乱で父義盛とともに討ち死にしたことになってはいるのですが、安房の国に逃れたという伝説も残っているのです。つまり自身の領地へ逃れて生き延びたのではないか、ということです。まったく実に伝説の多い男です。まだまだあります。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』(実は源氏から鎌倉幕府を奪った北条氏が自らを正当化するための史書)には「二代将軍の源頼家が、若い御家人と共に船を出して酒宴を催していた際、水練の達者と聞き及ぶ義秀にその芸を見せるよう命じた。義秀は海に飛び込み、十回往還し、次いで海の底へ潜り、三匹の鮫を抱きかかえて浮かび上がり力を示した」とあります。また、「和田の乱の戦いぶりは敵ながらあっぱれな討ち死にだった」と褒めたたえてもいます。朝夷奈義秀は和田の乱で北条氏に歯向かった敵ですから北条氏からは憎まれているはずなのに『吾妻鏡』では豪快な好漢として描かれています。そして北条氏の支配した鎌倉にあっても(敵将なのに)切通しにその名を残しているのです。伝説はまだあります。『源平盛衰記』では木曾義仲の敗死後、捕虜になった巴御前を和田義盛が見初め、妾にして生まれた子が三郎義秀ということになっています。しかし、これについては年代もずれており信憑性には欠けますが、朝夷奈三郎義秀という男は敵からもリスペクトされ、庶民からも慕われた好漢だったのではないかと私は思っており、物語にもそんな人物像を描き込みました。(ちなみに、『ひぐらしの啼く時』では、巴御前を義秀が実母のように慕う義母として描きました)
小説『ひぐらしの啼く時』は、『オリンポスの陰翳』の第一刷が完売したら出版を検討することになります。ですので、まずは『オリンポスの陰翳』をよろしくお願いいたします。
※2022年1月 『ひぐらしの啼く時』 を出版しました。コチラを宜しくお願いします。