源実朝の墓をめぐる謎
■寿福寺の源実朝と政子の墓
「ここは鎌倉五山第三位の寿福寺です。このお寺には、北条政子と鎌倉幕府第三代将軍、源実朝のお墓があります」
山門の前で、人力車のお兄さんが座席の若い男女に説明しているのが聞こえてきます。
実朝の墓? そう言いきってしまうのはどうでしょう。たしかに寿福寺の裏山の崖地には「やぐら」がたくさん並んでいて、その中に、「源実朝の墓」、「北条政子の墓」という立て札の立った「やぐら」があります。寿福寺は、もともと頼朝の父である義朝の旧邸のあった辺りに、政子が頼朝を弔うために建立した寺ですので、政子や、その子である実朝の墓があってもおかしくはありません。しかし、実朝が死んだ(暗殺された)のは1219年ですが、「やぐら」は最も古いものでも1270年前後で、多くは1300年代に入ってから作られていますので、少なくとも死んですぐに葬られた場所ではないはずです。
禅寺らしい閑静な参道。いつ来てもきれいに掃き清められていて、心が洗われるようです。
「政子・実朝の墓」という案内表示があり、矢印の先には寿福寺の墓地があります。
墓地の背後の崖には「やぐら」がずらりと並んでいます。「やぐら」の造成時期からして、寿福寺が建立された後に作られたはずです。となれば格式の高い寿福寺と関係のある、それなりに地位の高い人が葬られたことが想像されます。ですが……。
「北条政子の墓」という表示板のある「やぐら」がありますが……。
「実朝の墓」という表示板のある「やぐら」も……。
ベニヤ板に手書きされ、地べたへ無造作に置かれた表示板の文字が消えかかっています。鎌倉幕府第三代将軍の墓なのに……「ここがそうなんですよ!」という気迫が感じられない、と思うのは私だけでしょうか。(誇らしげに自慢したり主張しない、禅宗らしい無欲? 達観でしょうか?)
■実際に葬られたのは勝長寿院?
『新編鎌倉誌』の寿福寺の項には次のように記されています。
書窟(エカキヤグラ)
開山塔の後の方、山根にあり。俗にゑかきやぐらと云う。岩窟を一丈四方ほどにほり、内に牡丹からくさを、糊粉にて渥く置上て彩色したり。窟中に石塔あり。実朝の塔と云伝ふ。【東鑑】には、実朝を勝長寿院の傍に葬とあり、後人実朝の為に是を作りたるか。今按ずるに、当寺の開山井二世行勇和尚(注1)、共に実朝の帰依儈也。又平政子(注2)、共に二師を信仰せられ、行勇を戒師として、実朝葬去の後、尼になり給ければ、実朝の塔、此寺に有事は、此縁なるべし。
注1:寿福寺の開山は栄西。その弟子が行勇。
注2:平政子は北条政子のこと。北条氏の祖は桓武平氏である(ということになっている)ので、対朝廷向けの公式文書等では「従二位平政子」となっている。
実朝が葬られたのは「源実朝暗殺の謎を解明する小説『春を忘るな』を書くに至った訳」の傍で、(ここにあるのは)後世の人が実朝のために作った「塔」、つまり記念碑のようなもの「ではないか」と推定で言ってます。
また『吾妻鑑』は、建保七年(1219年)一月二八日(実朝が殺された翌日)の条で次のように記しています。
今暁加藤判官次郎使節として上洛す。これ将軍家(注3)薨逝の由を申さるるに依ってなり。 行程五箇日に定めらると。辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師たり。また武蔵の守親廣・左衛門大夫時廣・前の駿河の守季時・秋田城の介景盛・隠岐の守行村・大夫の尉景廉以下御家人百余輩、薨御の哀傷に堪えず、出家を遂げるなり。 戌の刻、将軍家勝長寿院の傍らに葬り奉る。去る夜御首の在所を知らず。五體不具なり。その憚り有るべきに依って、昨日公氏に給う所の御鬢を以て、御頭に用い入棺し奉ると。
注3:将軍家=実朝
このように、葬られたのは、やはり「勝長寿院」としています。では「勝長寿院」とは、いったいどんなお寺でしょう?
吾妻鏡には、元暦元年(1184年)十一月、源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために大御堂ヶ谷の地に建立したと記されています。その後は、康元元年(1256年)12月に火災で焼失し再建。またその後も度重なる火災、再建を繰り返し、鎌倉幕府滅亡後は鎌倉公方の足利氏に尊重されたようですが、足利成氏が享徳4年(1455年)に鎌倉から下総国古河に移り、やがて顧みられなくなって荒廃した、とのことです。
大御堂ヶ谷の住宅地(現在の雪ノ下4丁目)の、ほんの一角に、かつては大寺院だった勝長寿院があったことを示す碑が立っています。
鎌倉幕府初代将軍、源頼朝が幕府創設とともに建立した鎌倉を象徴する寺は、残念ながら現在は残っていません。今、鎌倉に残っている大寺院といえば、鎌倉五山の第一位は北条時頼開基の建長寺。第二位は北条時宗開基の円覚寺。第三位にようやく政子が頼朝の菩提寺として建てた寿福寺が入ってきます。建立の時期も最も古く、源氏の棟梁の菩提寺であるのに、北条氏の寺より順位(格式?)が低い(と言えるかどうかは定かでありませんが)のは、源氏三代の後は北条氏が幕府の実権を握っていった歴史と無関係ではないでしょう。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で三谷幸喜は、この辺りをどのように描くのか楽しみです。という話はさておき、「実朝の墓」というより、気になるのは、『吾妻鏡』の「将軍家勝長寿院の傍らに葬り奉る。去る夜御首の在所を知らず。五體不具なり。その憚り有るべきに依って、昨日公氏に給う所の御鬢を以て、御頭に用い入棺し奉る」という記述です。つまり実朝の首がどこへいったのかわからない。やむなく頭髪を頭のかわりに棺に入れた、と記しています。では、実朝の首はどこへ行ったのか? じつは鎌倉から30キロ離れた秦野市に源実朝公御首塚(みなもとのさねともこうみしるしづか)という史蹟があります。
■将軍、実朝は暗殺されて首を持ち去られていた
源実朝公御首塚(秦野市)
これについては、あくまで伝承(言い伝え)として、「公暁は実朝を暗殺した後、御首を持って三浦義村を頼って逃走したが、すでに北条氏より公暁追討命令が出ていて、公暁は義村の家来、武常晴に討ち取られてしまい、武常晴が公暁の持っていた実朝の御首を持って、(どういうわけか主君の三浦義村ではなく、義村と、何かにつけ対立していた)波多野氏を頼って秦野まで行き、そこに実朝の御首を埋葬した」とされているのです。
こちらは、あくまで「伝承」なので、どこまで信じていいかわかりませんが、少なくとも実朝の首が持ち去られた、という点においては『吾妻鏡』の記述と整合しています。将軍が暗殺されて、その首が持ち去られるなんてことは幕府の大恥、政権の大失態なのですが、それが幕府の公式記録『吾妻鏡』にちゃんと(正直に?)書かれているのは実に驚くべきことです。現代の某国の政府ですら公文書記録の改竄、隠蔽は珍しくない(?)というのに……。当時、京の朝廷への体面を考えれば、暗殺事件が起きた事実は隠しようがなくとも、将軍の首が持ち去られたなんてことは知られたくないはず。記録には残さないでおこう、とならなかったのでしょうか。今と違って(?)、武士政権は正直だった、な~んてことは絶対ありません。これは実に謎です。さらに……、
・なぜ実朝の甥である公暁が叔父である実朝を殺したのでしょう?
・また、仮に実行犯は公暁であったとしても、裏で指示した黒幕はいなかったのか?
・公暁が事件直後に殺されているのも怪しい。
まるでケネディー大統領暗殺事件の実行犯、オズワルドを思い出してしまうのは私だけでしょうか?
真犯人は誰なのか、現在もさまざまな説があって謎だらけです。この辺り「鎌倉殿の13人」はどう描くのでしょうか? 小栗旬扮するドラマ主人公の北条義時は、将軍実朝暗殺になんらか関わったのか? よもや「実朝は公暁に殺されちゃいました」なんてサラッと素通りしてしまうのではなかろうな? 2022年の大河ドラマに注目したいと思います。
このブログで、何度も申し上げておりますが、教科書の日本史では鎌倉時代を「誰がどうしてどうなった」と整然と書いていますが、中世鎌倉のことはわかっていないことが実に多いのです。謎だらけと言ってよいでしょう。
ということで、次回以降、実朝の死の謎と真相について徹底分析してゆきたいと思います。(「源実朝の謎(2) 実朝暗殺事件の影に蠢くもの」につづく)