――この小説は、源実朝暗殺事件の真相を解明する物語です――
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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証の一人、木下竜馬氏が次のように述べています。
『北条義時らが生きた中世初期は、江戸時代や戦国時代からイメージされる伝統日本とはかなり異質な時代です。暴力、名誉、国家、法、イエ、ジェンダー……などなどの面において、後代とはずいぶん違う価値観で時人は暮らしていました……』(以上抜粋)
たしかに、鎌倉時代を見ていると、暗殺、誅殺、かたき討ち、等々、人を殺す、じつに血生臭い場面が多いのを感じます。しかも、簡単に殺してしまう。現代で「クビを切る」といえば、会社を辞めさせる、解任することで「殺す」ことではありませんが、当時は実際に「(生身の)首を切る」ことでした。それは命よりも家(イエ)や名誉といった大事なもの(価値の高いもの)が他にあったからでしょう。
と、ここまでは、木下氏の言われる「中世人と近現代人の価値観の違い」を認めたうえで、命を惜しむ、憐れむ、人の死を悲しむ、という人間としての感情までも違っていたわけではないはずです。
いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母をたづぬる
『金槐和歌集』にある源実朝の歌です。
詞書に「道のほとりに幼き童の母をたづねて、いたく泣くを、そのあたりの人にたづねしかば、父母なむ身まかりにしと答え侍りしを聞きて詠める」とあります。中世鎌倉人も、こんな優しい感覚を持ち合わせています。この感覚は現代人とまったく同じです。なのになぜ暗殺、誅殺が、あのようにたくさん行われたのか? やはり疑問が残ります。
ところで、こんな歌を詠むような場面に実朝が出くわすことがあったのでしょうか? これは町中、しかも庶民の屯するような場所です。そんなところへ将軍の実朝が行くことがあったのでしょうか? 身辺警護の家来(今でいうSP)に取り囲まれながら詠んだとはとても思えない歌が、他にも『金槐和歌集』に散見されます。
歌人として有名な実朝は、武芸にはあまり馴染まない、繊細な文学青年のイメージで語られることが多いのですが、じつは、唐船(大型船)を建造して宋へ行こうとしたことが『吾妻鑑』に記されています。その計画は(おそらく北条義時の差し金で)頓挫したのですが、ずいぶんと勇ましい、熱血冒険家的な一面が垣間見えます。本当に実朝という人は青白い文学青年、というだけの人だったのでしょうか?
実朝を暗殺した実行犯、公暁は、兄、頼家の子、つまり実朝の甥です。暗殺の黒幕とされている容疑者の一人に北条義時がいます。2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公ですが、実朝の母、北条政子の弟、つまり実朝の叔父です。甥が肉親の叔父を殺し、その黒幕が被害者の叔父ということです。母親の政子は腹を痛めた我が子を暗殺がらみで全て失いました。それもすべて北条家のため容認していたかのように伺え、実朝の死後も気丈な尼将軍としての姿が『吾妻鑑』に記されています。あの気丈さはどこから来るのでしょうか? 価値観が違うとはいえ、肉親の命への想いのかけらもない「鉄の心を持つ女」だったのでしょうか?
実朝が殺されたとき、その首は持ち去られ、見つからないまま首無し遺体を埋葬したとされています。なぜそんなことになったのでしょう? 事件そのものが謎に包まれていますが、当時の慣習、体面からしても表沙汰にしたくないその事件を『吾妻鑑』は、どうどうと記しています。なぜでしょう?
実朝と、その周辺にいた当時の人々については、なぜ? 本当? とたくさんの「?」がつきまといます。それを解き明かすため、私は、当時の人物に寄り添って『春を忘るな』を書くことにしました。どうしても「説明」が必要な事柄があるため、物語には、現代の歴史学者とかつての教え子を登場させています。鎌倉時代に入るまで、しばらく現代の物語におつきあい願います。
(毎週金曜日に掲載。第一回は2020年12月18日(金)スタート)