1.鎌倉のこと

『ひぐらしの啼く時』の舞台(4)― 妙本寺 ―

前回の『ひぐらしの啼く時』の舞台(3)― 極楽寺 ― はコチラ


妙本寺は鎌倉駅から徒歩8分の比企谷(ヒキガヤツ)にある日蓮宗の本山です。

 
 このお寺の成り立ちを知るには、鎌倉時代に起きた事件「比企の乱」の歴史をふり返らねばなりません。おりしもNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもいずれ重要なエピソードとして扱われるでしょう。

妙本寺の建つ比企谷の歴史

■比企の乱

 源頼朝亡きあと、二代将軍、頼家を支えたのは頼家の乳母父であり、舅(シュウト)でもある比企能員(ヒキヨシカズ)でした。能員は頼朝の流人時代を支えた比企尼(ヒキノアマ)の娘婿として比企氏の家督を継ぎ、頼朝の嫡男、頼家の乳母父となりました。また能員の娘、若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡を産み、将軍家の外戚として力を持つようになりました。当然ながら面白くないのは、それまで源家の外戚として力を持っていた北条氏ですが、ここから先の歴史を知るには、北条氏が政権をとった後の幕府の役人が記した『吾妻鏡』に頼らざるを得ません。


比企の乱に関係する主な人物


阿波局(アワノツボネ)(「鎌倉殿の13人」での俗名が実衣


『吾妻鏡』による建仁3年(1203年)の記述

(あくまで『吾妻鏡』の「比企の乱」前後を要約したものであることに留意願います。また、赤文字は当記事著者の補足及び感想とつぶやきです)

7月20日:二代将軍、源頼家(どういうわけか)急病に倒れる。(まず、ここがじつに怪しいですね)

8月27日:頼家の容体が危篤と判断されたため急遽家督継承が行われ、関西三十八カ国の地頭職は弟の千幡(後の実朝)に、関東二十八カ国の地頭職並びに諸国惣守護職が頼家嫡男の一幡に継承された。すると、一幡の外祖父である比企能員千幡との分割相続となったことに憤り、謀反を企てて千幡とその外戚(北条氏)を滅ぼそうとした。

9月2日:能員が娘、若狭局を通じて頼家北条時政を討つように訴えると、頼家能員を病床に招いて時政追討の事を承諾した。これを政子が障子の影から立ち聞きし(まるで「家政婦は見た」ですね)、事の次第を時政に知らせた。

時政大江広元能員征伐を相談すると、広元は明言を避けつつも同意した。そこで時政は仏事にこと寄せて(仏事と偽ってでしょう)能員を名越の時政邸に呼び寄せて誅殺( 誅殺 とは罪を咎めて殺すことですが、はたしてどうでしょう?)。逃げ帰った能員の従者が能員遭難を知らせると、比企一族は一幡の邸である小御所(これが比企谷(現在の妙本寺境内)にあったのです)に立て籠もります。するとこれは謀反であるとして政子が比企氏討伐の命を下し、北条義時を大将として名だたる御家人たちが(寄ってたかって)比企一族の小御所を攻め立て、力尽きた比企側は館に火を放って一幡の前で自決し、一幡も炎の中で死んでしまった(このとき、能員の末子である能本(ヨシモト)が生き残って京都へ落ちのびたか、あるいは、その時たまたま京都にいたようで、後に僧侶となって妙本寺を建立することになります。詳細は後述「■妙本寺の成り立ち」)

9月5日:危篤を脱して若干病状が回復した頼家は、嫡男の一幡と比企一族の滅亡を知ると激昂し(当然ですよね)和田義盛らに北条時政を討つよう御教書を送ったが、義盛はよくよく考えたうえ、それを時政に渡した。頼家を裏切って北条側についた)

9月7日:政子の命により頼家が出家。(頼家は政治的に敗北)

9月10日:千幡(実朝)が時政邸に移る。(実質的に時政が将軍を後ろ盾にして幕府の実権を掌握)

9月15日:千幡の乳母、阿波局(政子・義時の妹)が、時政の妻、牧の方には悪意があるように思われ、時政邸に置いておいては若君( 千幡 )の身が危険であると政子に告げると、政子も以前から気になっていたので、義時らを派遣して(千幡の)身を時政邸から引き取った。

9月15日:千幡(実朝)に征夷大将軍が宣下された。(北条が外戚となる第三代将軍の誕生)

21日:時政広元の評議によって頼家の鎌倉追放が決定される。

29日:頼家が伊豆修禅寺に退く。
(その後、頼家は時政の放った(とされる)刺客に殺害されます。『愚管抄』による頼家殺害状況はコチラ。とにかく酷い殺され方です)


頼家殺害の想像絵(刺客の一人が「北条義時」となっていますが、義時が現場にいたという記録は無いと思います)

以上、『吾妻鏡』をかいつまんでご紹介しましたが、 こうして頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は滅亡し、北条氏が外戚となる三代将軍、実朝が誕生するのであります。この一連の騒動を「比企の乱」と称していますが、どう見ても「北条氏の乱(クーデター)」としか言いようがない、と私には思えます。さて「鎌倉殿の13人」では、どのように描かれるのでしょう。楽しみです。

■妙本寺の成り立ち

 比企能員の末子、能本(ヨシモト)は比企の乱で生き残って京都へ行き(あるいは、その時たまたま京都にいた?)、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をしました。ところが彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから赦免されて鎌倉に帰り、その後、比企一族の菩提を弔うため日蓮に帰依して比企谷の屋敷を献上し、法華堂を建立します。これが、妙本寺の前身となり、その後、日蓮の弟子、日朗が継承して以後、日蓮宗の重要な拠点となったそうです。

比企能員邸があったゆえに、この地が比企谷となったことを示す碑が妙本寺山門横にあります。

■『ひぐらしの啼く時』と妙本寺

 以上のような来歴のある比企谷の妙本寺。今は閑静なお寺ですが、かつて鎌倉時代初期の一時期には、この地が二代将軍、頼家の小御所、つまり今で言えば首相官邸のような場所になっていたのです。(政子にしてみれば、跡取り息子の側室の実家が御所の別邸になってしまったわけですから面白いはずはありません)


谷戸の奥に山門が見えてきました。



山門を潜ると……。


谷戸の奥を平に造成したこの地に、かつて比企邸がありました。そこが燃え盛る炎に包まれ、比企一族は滅びたのです。今は「つわものどもが夢の跡」……。
『ひぐらしの啼く時』では主人公の祐輔とのり子が数年ぶりに再会した後、最初にデートした場所が妙本寺でした。二人は、境内にある「比企能員公一族の墓」の前に立ち、「比企の乱」に想いを馳せ、血で血を洗う鎌倉時代の氏族抗争と、かろうじて繋がった比企の血筋を偲びます。そのとき、二人は自分たちが鎌倉時代の氏族の末裔であることに気づいていたのでしょうか?


「比企能員公一族の墓」は妙本寺本堂の脇にひっそりとあります。


本堂の裏にあるやぐら

やぐらは鎌倉時代の末期から造り始められた墓ですので「比企の乱」の時代にはまだなかったはずで、比企氏とは直接の関係はないと思われますが、おそらく鎌倉時代のそれなりの地位の人が眠っているのでしょう。『ひぐらしの啼く時』では祐輔とのり子がこのやぐらを見ながら、鎌倉を囲む山々に数千あるといわれるやぐらに想いを馳せます。鎌倉は武士(モノノフ)たちの屍に囲まれ、その霊に守られている都なのだと……。
 そのあと二人は、長い時の流れをさかのぼり、秘められた謎が解き明かされてゆきます。

(冒頭部分は、下のAmazonサイトで「試し読み」ができますのでご覧ください)


『ひぐらしの啼く時』コチラ

『ひぐらしの啼く時』ご紹介コチラ

次週は『ひぐらしの啼く時』の舞台(5)― 腹切りやぐら ―

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