前回の『ひぐらしの啼く時』の舞台(4)― 妙本寺 ― はコチラ
前回(4)の妙本寺から今回の腹切りやぐらまでは滑川(ナメリカワ)沿いを歩いて20分ほどです。
腹切りやぐら。なんとも物騒な名をつけられたものです。でも、その歴史をひも解けば頷けます。
1333年7月4日(旧暦:元弘3年5月22日)、稲村ヶ崎から攻め入った新田義貞ら朝廷軍(詳細はコチラ)に追い詰められた14代執権・北条高時、16代執権・北条守時ら北条氏一族と、その家臣870余名が菩提寺「東勝寺」にて総自決、つまり一斉に切腹した場所と伝われています。このとき東勝寺は焼け落ち、やぐらはその後、菩提を弔うために造られたものと考えられますが定かではありません。
東勝寺橋
東勝寺跡や腹切りやぐらへ向かうには滑川(ナメリカワ)にかかるこの橋を渡ります。
鎌倉時代の地表面は、現在より地下(場所によって2~6m)ですが、この川床は鎌倉時代に造成された当時のままという説があります。(学術的には未確定) 私は、この写真を撮りながら鎌倉時代に立っているのを感じました。
東勝寺橋を渡ると、しだいに道は狭まり、やがて雑木に覆われた山の斜面を登ってゆきます。この東勝寺跡、腹切りやぐら付近を心霊スポットといたずらに騒ぐのは戒めなければなりません。やぐらを護持されている宝戒寺様も、それを案じて「霊処浄域につき参拝以外立入禁止」と名碑に記しています。それでも、この橋の傍まで来ると感じる人には感じるものがあるようです。(なにしろ「霊処」ですからね)じつは私もそうなんですが、『ひぐらしの啼く時』ののり子も……。
小説本編から引用します。
東勝寺橋まで歩いたところでのり子は立ち止まった。山側に少し登ったところにあるやぐらにはやはり行きたくないという。そんな彼女を橋のたもとに残し、祐輔ひとりで見に行くことにした。来たことがあるかどうか確かめたかっただけだ。(中略)あまり近寄りたくない、とのり子は言ったが、考古学者の彼女でもそういうことがあるのだろうか。そう言ったときの曇った表情が気になった。もやもやとした想いを抱えながら祐輔はひとり狭い道を登る。
鬱蒼と茂る木々に日が遮られ、昼でも薄暗い山路を登ったところに、やぐらを示す碑があります。
この先にやぐらがあるはずですが、足場はシダの葉に覆われ、戯れに近づく者を拒むかのようです。
シダの群生の奥に、ぽっかりと暗い口が見え始めました。
たしかにやぐらのようです。が、見ようによっては黄泉の国への入口にも思えてしまうのは私だけでしょうか。
ここで、やぐらに向かって手を合わせ、北条氏一門の菩提を弔います。静かに眠っている霊を起こしてはいけませんので、鎮魂……。
やぐらの中には五輪塔と、比較的新しい卒塔婆が置かれています。以前に来た時は、志主「高倉健」と記された卒塔婆がありました。俳優の高倉健さん(故人)は祖先が北条氏(名越系の北条篤時)と知ったときから、ときどき参拝に来られていたようです。
余談ですが、太平洋戦争中は皇国史観の影響で、国民学校の生徒が遠足などで訪れると、このやぐらに向かって石を投げたという話も聞きます。なにしろ北条氏は承久の変で朝廷と敵対し、天皇を島流しにしてしまった朝敵だから、ということのようです。
このブログで何度も申し上げているように、鎌倉は山沿いの土地に歴史が刻まれています。言うなれば「土地の記憶」ですが、そこには魂とか怨念といったものも含まれるかもしれません。北条氏一門の870余名が一斉に自害したこの場所なら、なおさら強くそういったものが染みついていてもおかしくはないでしょう。そんなことを考えながら引き返そうとやぐらに背を向けたとたん、声なき叫びのようなものを背中に浴びせられたかに感じ、ぞわっと鳥肌がたちました。おそらく、たんなる気のせいでしょう。たぶん……。そう思いたいです。
さて、『ひぐらしの啼く時』はそんな怪談じみた物語ではありません。主人公の祐輔やのり子が、この場所で感じたのは……「土地の記憶」なのか、それとも……。
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