1.鎌倉のこと

切通し(4)―巨福呂坂―

 タイトルの絵は「一遍上人聖絵」第五巻第五段、一遍上人が巨福呂坂より鎌倉へ入ろうとしたときに、武士に阻まれて入れなかったときのことを描いたものと云われ、国宝に指定されています。白い直垂を着た馬上の武士は北条時宗と云われていますが、これについては異論もあるようです。ふつうに考えれば、時の執権(今ならば総理大臣クラス)が自ら 先頭に立って治安活動をするものだろうか? おそらく警察署長とか機動隊の隊長みたいな役職の人だったんじゃない? と私も思います。

※「こぶくろざか」は、現在「小袋坂」の表記が一般的ですが、当記事では古文書に多く使用されている「巨福呂坂」に統一します。

 さて、今回、なぜこの絵を最初に出したかというと、この絵の「巨福呂坂」とは、いったいどこなのか? ということなんです。というのも現在の鎌倉街道は自動車の通る幹線道路で、山を切り通した辺りは鉄骨コンクリートで固められた巨福呂坂洞門になっています。(下の写真)


巨福呂坂洞門
「切通し」には違いありませんが、現代の構築物です。この切通しシリーズは、鎌倉七口を写真でご紹介しながら、中世鎌倉の面影を探ってきたのですが、今回の巨福呂坂については、残念ながら「中世」の姿を目で見るのは難しいでしょう。とはいえ鎌倉七口のひとつですので、このシリーズから外すことはできません。なんとかその痕跡を探り、中世の面影を追ってみたいと思います。

 では、一遍聖絵の場所は、現在の「鉄骨コンクリートで作られた巨福呂坂洞門」の辺りなのでしょうか? そういう説もあります(どちらかといえば、その説が主流のようです)。しかし、違う説もあります。ここから先は諸説に基づいて私の推理と妄想?を雑えたお話になります。ですので「思う」「思われる」「考えられる」が多用されていることをお許しください。(私たちが習った教科書では、鎌倉時代が、さも何でもわかっているかのように語られていますが、中世鎌倉世界は、まだまだ不確かなことが多いのです。しかし「だからこそ」小説を書くにはじつに魅力的な時代と言えるでしょう)

 それでは、巨福呂坂と考えられる鎌倉街道沿いを鎌倉の「内」から「外」に向かって辿ってゆきます。
(番号は、辿った順番で、掲載写真の付番と同じ)


①鶴岡八幡宮「車お祓い所」
鎌倉街道をまたいで、この向かい側を左に折れると旧道に入ってゆきます。


②旧道の入口
左のトンネルは水道路隧道。右に上がってゆくのが旧道です。


③青梅聖天社
旧道に入って間もなく、左側に鳥居と急な石段があります。本尊の双身歓喜天は、男神と女神が相抱き正立して顔を見つめ合う像とのこと。なにやら艶めかしいご本尊で、とても興味をそそられますが、今回は「巨福呂坂」がメインですので、参拝はパスして先を急ぐことにします。 
(双身歓喜天というのが、どうしても気になったので翌日再度訪れてみました。興味ある方はリンク先をご覧ください


④道祖神があるのが旧道らしい風景です。


道祖神の周辺は、いちめんに曼殊沙華が咲いていました。『法華経』の序本第一で、お釈迦様が大乗の経を説かれた時、天から降ってきた花がこれでしたよね。


旧道の行き止まり。
おそらく、この先は開削された新道を見下ろす崖淵でしょう。旧道確認はここまでにして引き返すことと致します。


⑤新道に戻って北鎌倉へ向かうと間もなく「巨福呂坂洞門」が見えてきます。ここを通るとき、私はいつも「まるでタイムトンネルみたいだな」と思うのですが、ン十年前、TVでやっていた『タイムトンネル』というアメリカのドラマをご存知の方は、私と同世代です。


⑥建長寺
鎌倉五山第一位。山号は巨福山。開基は北条時頼。山号が今回のテーマを暗示してますね。


 奥に見える建物は建長寺が理事を担う鎌倉学園の校舎。サザンオールスターズの桑田佳祐さんの卒業された高校です。仏教系高校からミッション系大学へ進学されたわけですね。まあ、かくいう私も菩提寺が臨済宗ながら、桑田さんと同じ大学行ったわけですが……。


⑦浄智寺
鎌倉五山第四位。開基は北条師時。最近はTVドラマのシーンにもよく使われているようです。ちなみに、ここは我家の菩提寺。父親の墓があるのですが、今日は先を急ぎますので墓参りはパス。山門の写真だけ撮って背を向けた瞬間「この親不孝者!」という声が背中でしたような気が……。


⑧東慶寺
源氏山から~ 北鎌倉へ~♬ さだまさしさんの「縁切寺」に登場する、ここも北条氏の寺ですが、先を急ぎますので、ここもパス。


⑨円覚寺
鎌倉五山第二位。開基は……むむ、なんと北条時宗! あの「一遍上人聖絵」で一遍たちを阻止しようとしている白い装束の武士が、一説には北条時宗と云われており、まさにその人ではありませんか。

 このように北条氏ゆかりの大寺院が並んでいるこの辺りは鎌倉の「内」ということになります。ということは「現在の巨福呂坂洞門のある場所⑤」は、これらの北条氏寺院より、さらに手前(鎌倉中心部側)でしたので、鎌倉の「内」にかなり入ったところ、ということになります。 



一遍上人聖絵(国宝名は「一遍上人絵伝」清浄光寺(遊行寺)所蔵)

 「一遍上人聖絵」第五巻第五段の詞書(時宗僧の聖戒)には、「武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えようと仰った。(その気迫に圧倒されたのか)武士は鎌倉の外では布教が禁止されていないと告げた」と記されています。

 この詞書の状況から推察すれば、この絵の場所が、鎌倉と外の境い目であると考えられます。とすれば「現在の巨福呂坂洞門のある場所⑤」は、この絵の場所としては、鎌倉の内側過ぎないか? と、私は思うのです。

 それでは、鎌倉街道沿いでは、どの辺りがその境界となるのでしょう。その手がかりのひとつが鎌倉幕府の執り行った四角四境祭です。この祭祀における、鎌倉の四つの境界(東西南北)のうち、北の境界が巨福呂坂(山内)で、その場所は現在のJR北鎌倉駅の北側にある八雲神社辺り(または十王堂橋辺り)と考えられます。(なぜ、そう考えられるかについての詳細はリンク先をご覧ください)。

 もうひとつの手がかりは鎌倉の「防塁」です。「防塁」とは鎌倉の外と内の境い目にある関所のようなもので、敵が侵略してきた時には軍事上の防衛線になる場所です。これについては考古学者の馬淵和雄氏が、「JR北鎌倉駅下り線ホームなかほどにある岩塊が、おそらく頼朝以前から存在した、鎌倉の北(西)の入口を守る防塁」である、と述べています。(これについての詳細はリンク先をご覧ください)


⑩北鎌倉隧道(通称、駅裏トンネル)のかつての姿
尾根状の岩塊にトンネルが開いてますが、この岩塊そのものが「防塁」であった可能性があるのです。


現在のようす
左側がJR北鎌倉駅下り線ホーム。中央に微かに向こう側出口が見えます。

 北鎌倉駅下り線ホームに隣接した通称「駅裏トンネル」として市民に親しまれていた北鎌倉隧道の壁面が一部剥落により危険と判断され、平成27年4月28日より通行禁止となりました。その後、隧道そのものが崩落する危険から、完全に開削(岩塊を取り除いてしまう)して自動車通行の可能な道路に改修工事する案と、景観、歴史的価値から隧道を補修して保存しようとする案の対立で、方針が定まらず、そのままの状態が続いています。補修しないまま放置された状態ですので、さらなる崩壊も危ぶまれており、鎌倉の政治問題となっています。


JR横須賀線下り線ホームから見たようす
この写真の左(上り線ホーム)のさらに左下に鎌倉街道が並行して通っています。横須賀線を開通させた時に、すでに岩塊の一部を切り崩しているのが伺えます。(右に白く明るくなっているのがトンネルの向こう側出口。わっかるかな~? わからねえだろうなァ~。というフレーズを知っている方は私と同世代)

 私としては「隧道」は北鎌倉の美しい景観(鎌倉らしい風景)を保つため、また中世鎌倉の防塁であった可能性もあることから、ぜひ保存したいとは思いますが、「安全」が優先されるべきでもあり、難しい問題です。

 それはさておき、これまで述べてきたことから「一遍上人聖絵」の「巨福呂坂」に描かれている場所はJR北鎌倉駅ホーム周辺ではないだろうか? と、馬淵氏の仰るように、私も思うのであります。


JR北鎌倉駅ホームから円覚寺よりの鎌倉街道。
この写真を「一遍上人聖絵」と比べてみてください。(前出の絵と同じ)

どうでしょう? 重なりませんか? ウ~ン……ビミョウ?

 少なくとも、「巨福呂坂」は鎌倉街道の「JR北鎌倉駅周辺」から「鶴岡八幡宮の車お祓い所」までのどこか、あるいはその全体であることは確かですが、その辺りはすべて近現代の開発が進んでいて、さらっと見ただけでは中世の面影は消えつつある、あるいはすでに消えてしまったと言わざるを得ません。しかし、一遍聖絵を見、旧道の道祖神を見、北鎌倉駅の隧道が保存されることを願いながら目を閉じれば、鎌倉布教を目指して念仏を唱え、境界を越えようとする僧侶と、それを阻止しようとする鎌倉武士の姿が、闇の中に、ぼんやりと浮かんでくるではありませんか。そして馬の嘶きと蹄の音、鎌倉武士の暴挙を詰るような念仏衆の唱和が地から湧き上がるように聞こえ、馬の匂い、汗と垢の匂いを香を焚いてごまかした中世人の体臭までも匂ってきます。そうです、妄想力を発揮すれば、目に見えぬ中世も見えてくるのです。妄想力バンザイ!

 さて、ここでコマーシャルですが……
 中世への妄想力を遺憾なく発揮して創作した私の小説としては、鎌倉御霊神社の面掛行列を題材にした『面の血脈』、源実朝暗殺の学説、通説を覆す『春を忘るな』がありますが、まずは『オリンポスの陰翳』が順調に売れないと次の出版に繋がりません。何とぞよろしくお願いします。
『オリンポスの陰翳』ご紹介
※『春を忘るな』は下の「森園知生の著作一覧」をクリックしていただくと全文を公開しています。(後日追記)

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